脳と心 〜発達障害者の物語 序の6 自分の親が発達障害だったら〜

 太宰治の『人間失格』の「第一の手記」に、主人公が子どもの頃のことが書いてある。父親が出張で買ってくる子どもへの土産について、主人公は本が欲しいが、父はもっと“子どもらしい”獅子舞のおもちゃを買い与えたいと考えている。主人公は獅子舞のおもちゃはちっとも欲しくないだが、父の怒りを恐れて、獅子舞のおもちゃが欲しい振りをする。
 これに限らず、この作品中のエピソードはどれも気持ちの悪いもので、太宰はそれをことさら嫌らしく書いている。それはそれでおもしろくもあるのだが、私がかつてこの小説を読んだ時、自分と自分の父に関しても似た部分があると感じて、いやむしろ、欲しい物と買い与えてくれる物との関係で似ている部分があって印象に残っている。
 私の父は『人間失格』の父親のように、威圧的ではないが、私の場合でも『人間失格』の場合でも、いわゆるエディプス・コンプレックスの部分はあって、つまり母親への思慕の反面、父親への反発があるわけだが、発達障害について考えるようになって、まったく異なった考えが出てきた。
 私は、中学生の頃、熱帯魚飼育と鉄道模型の趣味に凝った。少ない小遣いの中で、次はどの魚を買おうか、どの車両を買おうか、悩み考え続ける。何回も近所の熱帯魚屋と模型屋に通って、現物を見て、あるいは雑誌などで情報を集め、家で水槽や手持ちの車両を見て、とにかく考えに考えるのである。
 一つの水槽にいくつかの種類の熱帯魚を入れるには、組み合わせ方があり、それが誤っていると魚が攻撃されることがある。鉄道模型の車両であれば、私は貨車が好きなので、貨車や貨車を牽引する機関車が欲しいと思っている。
 ところがある日突然、父が、私が考えてもいなかった熱帯魚を購入してきた。緻密に積み上げてきた購入の計画はすべて水泡に帰した。組み合わせはともかく、他の魚との色彩や生態のバランス、水槽内をアマゾン風にしようか東南アジアの沼沢地風にしようかなどのイメージもすべて吹っ飛んだ。
 小遣いではなかなか換えない高価な電気機関車も、やはり突然買って来た。それはブルートレインを牽引する機関車であるから、自分の好みや計画とはまったく無関係であった。その機関車に引っ張らせる客車を全部揃えることは小遣いでは難しく、貨車を引くことはない機関車なので、その機関車1輛があってもどうにもならない。
 もちろん、父は私が大喜びすると思って買ってくるのだろうと思った。そういう物を買ってきてくれるのだから、感謝しなければいけない。そんなことをしてくれさえもしない、あるいはできない父親だっているのだから、と思う人もいるかも知れない。
 であるから、私は、買ってきてくれた物に喜べない自分にひどい罪悪感を憶えて、どれほど苦しんだことだろう。これらの品物だけではない。そういう物がほかにもあり、私はどうしてもそれらが好きになれず、従ってあまり大事にせず、そういう自分が罪深いと感じてしまうのである。食事に行っての注文などもそういうことがよくあった。
 私は、どうして父がこちらの意向を何も聞いてくれないのか悩んだ。どうせ買ってくれるのなら「今度、誕生日に機関車でも買ってやる、何がいいか」と聞かれたら、私はそれまでとは違った熟考でもって「DD13というディーゼル機関車があるので、それを是非」と言い、それが手に入ったら、まったく欣喜雀躍したことであろう。
 父が、私の喜びを倍加させるために、不意打ちをしたのだとも思った。しかし、特に趣味の部分に関しては、決して「何でもいい」ということはない。ほんのわずかな違いでも、本人にとっては恐ろしく重要なことなのだ。
 父は、自分の支配下に私を置きたいのだとも思った。まさにエディプス・コンプレックスである。『人間失格』のエピソードと似ている。子ども時代の主人公が本が欲しいと思うと父親は不機嫌になり、獅子舞が欲しいと分かると(主人公が凝った芝居でだましているのだが)、上機嫌になる。
 私の父も、父が買ってきたものを、私が無条件に喜ぶことを(意識的にせよ無意識的にせよ)望んでいるのでないかと思った。
 そういうことを、十代の半ばから四十代の半ばまで、三十年間考え続けてきて、私は思い当たったのである。
 これはそんなことではまったくなく、父には発達障害があり、そのため、熱帯魚や機関車の購入は、まったくの衝動行動なのではないか、あるいは、相手(私)の気持ちや立場を察するのが苦手だからなのではないか。『人間失格』とはまったく別のものではないか。
 そう思うと、そうした一連の行動だけでなく、いろいろと思い当たることがあった。
 その場で言ってはいけないような言葉を平気で発する、大事なことを話しいても興味がないと目の前で大あくびをする、などのコミュニケーションの問題。
 いつも貧乏揺すりをしたり指先でテーブルを叩いている、家族で出かけるといつも一人で先に歩いて行ってしまう、しょっちゅう足を家具にぶつける、といった多動や注意欠如。
 大事なことを勝手に決めてしまったり、急におかしな物を買ってくる、などの衝動行動。
 そのほかにも、すぐに激高するなど、感情のコントロールが苦手な部分もあった。
 もし、私の父が発達障害者であるならば、父の言動は悪意でもなければ、私への支配欲でもなかったことになる。それはまったく、紋切り型の表現で言うならば、まさに目からうろこが落ちるような思いであった。
(続く)