北京夜市

 子どもの頃から、祭の夜店の食い物が好きであったから、北京に屋台が、それも毎晩のようにたくさんの食い物の屋台が出る通りがあることを知った時には、うれしかった。夜になると出現するので「夜市」という。
 留学していた時、週に一遍くらいは京劇を観に行っていた。その劇場は、北京の中心街に近いが、金魚胡同(路地)を入った所にある小さくて庶民的な吉祥劇院という劇場だった。この胡同が直角に交わる王府井(ワンフーチン)大街という大通りを挟んだ向こう側に、王府井大街とやはり直角に交わる東安門大街という、大街というほどには大きくない通りがあり、ここに夜市が出るので、観劇の前にいつもそこで腹ごしらえをした。
 北京には当時、こうした夜市が三カ所くらいあったようだが、この東安門の夜市が最大だったように思う。あれで何軒くらい並んでいるのだろう、百軒近くあっただろうか、一度も数えようとしなかったのが惜しまれる。もちろんすべて食い物の屋台である。
 どの屋台も組み立て式であり、昼間その通りは車の通行するごく普通の道路である。ここに、夜毎市中のどこからか、自転車のサイドカーやリヤカーに、屋台の骨組み、プロパンのボンベ、コンロや調理器具、食器それに食材など一式を山のように積んだ人たちが、三々五々集まって来て、日没を待つように営業を始めるのである。
 ここにありとあらゆる食い物屋が並んでいるのだが、この中に私が、必ず食うもの、ときどき食うもの、以前に食ったことがあるがその後は食わなくなったもの、食ったことのないもの、とある。それぞれにもちろん名前があるが、私はほとんど記憶していない。だいたいいつも食う順番に記してみよう。

 ニラと卵を丸く揚げたもの。必ず食うもの。油がたっぷり入った鍋が二つ、少し高さに差をつけてぴったりと二つ並んでいる。油の温度が違うと聞いた。どちらが高くどちらが低いのかは忘れてしまった。中華の鉄のお玉に、トロッとした生地と粗く切ったニラと卵を落とし、これを鍋の油の中に落とす。しばらくしたら、もう一方の鍋に移し、さらにしばらくすると、バットに上げる。これを、古雑誌を切った紙に包んで手に持って食う。卵は中が半熟だが、とにかく熱く、これを氷点下の寒さの中で食うのは格別であった。この屋台は一番端(王府井大街寄り)にあったため、必ず最初に食った。この店は段々と評判になったようで、次第に混みはじめ、後には類似店が二、三軒出るようになった。
 醤油焼そば。ときどき食うもの。たぶん、日本の焼そばと同様に、麺を蒸かしたものを炒めたのだろう。ただ、中国の多くの麺は、日本の中華麺とは異なりあまり鹹水を混ぜない麺が多く、この焼そばの麺が鹹水を入れた中華蒸かし麺であるかどうかは不明だ。具は、ニンジンとタマネギだったか。これを醤油で味つけしてあり、上に香菜が少しかかっている。単純な料理だが、薬味に、白酢に入った刻みニンニクや唐辛子の油漬けを適宜掛けると結構うまかった。私はこのニンニクをいつもたっぷりと掛けた。この二つの薬味と黒酢は、以下、どの麺類や汁物の屋台にも備えてある。麺類は後述するようにいくつかあるので、その日によってどれを食うか選んでいた。
 臓物を厚揚げやパンと一緒に煮込んだもの。必ず食うもの。おそらくマレーシアやシンガポールの名物料理である、肉骨茶(バクテー)の変形であろうと思う。ずっと後になって、マレーシアで肉骨茶を食って、そう思い至った。マレーシアのそれはもっと漢方薬くさいものであったが、北京の夜市のこれは、薄口の醤油味で、意外にあっさりしたものだった。大鍋にいろいろな臓物、豚の臓物であろう、これが大きな塊のままに入っていて、腸などはのたくっている。こういう様子は、日本人ならば「気持ちが悪い」と思う向きもあるだろうが、きっと肉食文化が長い人たちにはむしろ食欲をそそる景色なのだと思う。注文すると、これらの臓物を鍋から引き上げて、中華独特の丸太の輪切りのまな板の上で、これも大きな中華包丁で、大仰に叩き切る。そして厚揚げとパンと一緒に丼に入れる。パンというのは丸い塊だが、よほど堅いのかぐずぐずになっているわけではない。ただ、このパンでお腹がいっぱいになってしまうのは、少食な私には難点であった。
 四川担々麺。ときどき食うもの。本格的な四川の担々麺とは違うかも知れない。細い麺に真っ赤な汁が掛かっており、何やら細く刻んだ漬け物がのっている。油っ気は多くなく、軽い麺類であった。「四川担々麺! おいしくて、やすいよ!」といつも女の売り子が大声で客を呼んでいた。器は小さく、味噌汁椀ほどのもので、ほかの麺類もそうだが、おかげでいろいろな麺類、汁物を愉しむことができる。
 牛肉拉麺。ときどき食うもの。蘭州名物だというが、やはりこれも蘭州のものにどれだけ近いのかは不明である。「拉」麺つまり麺を引っ張って伸ばすのだが、まあまあうまい。汁はあまり工夫がない。サイコロのような牛肉の煮たものがわずかに入っており、上に香菜がかかっている。薬味をたくさん入れて食うので、うまく感じていたのかも知れない。
 センマイ煮込み。以前に食ったことがあるがその後は食わなくなったもの。それまで臓物のセンマイなるものを食ったことがなかったので、いかにも臓物然としており、うまいものだろうと思ったが、至極あっさりとして、しかもなかなか噛み切れないため、数回食ってから食わなくなった。もっとも、センマイはあまり味がなく、歯触りが身上の臓物のようなので、この夜市のセンマイ煮込みが不味だったわけではないかも知れない。
 包子。ときどき食うもの。小さな肉饅頭である。小さい蒸籠に三つくらい入っていたもので一人前であったと思う。中華料理の点心として想像できる味で、まあ、うまいものであった。黒酢をつけて食べたように記憶している。屋台の台の上に、生のニンニクが皮のついたまま、いつも転がしてある。欲しい人は、勝手に自分で皮をむいて、饅頭と一緒に齧るようになっていて、こうやって食べるのはけっこう病み付きになる。中国の人はこういう食べ方をするのかと感心した。
 エビ揚げ。以前に食ったことがあるがその後は食わなくなったもの。屋台の群れの中に、何軒か串揚げの店があった。何種類かの材料を(鶏肉などもあったろうか)揚げているが、エビは大きなものが二本くらい串に刺さって、いい色に揚がっている。たが、これは何とも胸の悪いなるような味であった。油がどうもひどいようだ。「万年油」と呼ばれて、古くなって酸化したようなものを使っているとも聞いたことがある。しかし、前述のニラと卵揚げはそんなことはなかった。何よりエビも鮮度が悪いのだと思う。北京は内陸だから、新鮮な海産物は、高度な冷凍技術と物流がなれければ、手に入らない。
 サソリ揚げ。食ったことのないもの。やはり串揚げの屋台のひと品である。わざわざサソリを串揚げにして食うというのは、中国医学的に健康に役立つということもあるだろうし、観光客などが吃驚するという効果もあるのだろうか。私は、気味が悪いし、それほど美味とも思えないので食わなかった。それに値段もやや高かったように思う。ほかにも、カイコの幼虫の串揚げなどもあった。
 ワンタン。ときどき食うもの。具が入っているのかいないのか判らないようなワンタンが、薄いスープに漂っており、上に香菜がかかっている。スープには、小さな干しエビが浮いているが、出汁というほどの味もない。しかし、ここに、白酢ニンニク、黒酢、唐辛子油漬けをたくさかけて食べると、香菜の香りもよく、意外にいけるのである。さて、ほかの麺類にも香菜がかかっているものがあるが、食べる時には、まずこの香菜を熱い汁によくつけてから食べるようにすべしである、といわれていた。香菜は生なので、感染症予防のためである。
 白い汁粉。以前に食ったことがあるがその後は食わなくなったもの。夜市にはデザートもある。その一つ、というより、これ以外には甘い食べ物はなかったのではないか。これは豆を甘く煮て飲むもので、つまりは汁粉であるが、味つけには何種類かあったように思う。私は甘いものも好きだが、どうも夜市で甘いものを食べる気にならず、また、この飲み物があまり口に合わなかったようで、一度味わっただけであった。巨大なポットに入っている温かい汁を、陶器の椀に入れて供する。
 炒め粒麺。以前に食ったことがあるがその後は食わなくなったもの。イタリアの麺類は、必ずしもそば状のものばかりではなく、平べったい板状のものや、貝殻のようなマカロニの類いもある。中国も同じらしく、どちらが元祖かとはいえないが、直径一センチから二センチくらいの粒状の“麺”を炒めたものが、夜市にあった。この生地を指でつぶして延ばすと、貝殻マカロニになるのだろう。今思うと小さなニョッキのようである。最初に見たときは、豆を炒めたものかと思った。私が食べたものは、歯ごたえも味も今ひとつで、その後食べなくなってしまった。味は、薄い醤油味で、焼そばと同じであったように記憶している。
 米豆腐。以前に食ったことがあるがその後は食わなくなったもの。1987年の中国映画『芙蓉鎮』(日本では1988年に公開)に登場する軽食である。文化大革命批判の映画であり、改革開放の中国を予見させるような映画であったため、当時、中国に興味のある日本人が挙って観た映画である。実際には、1989年の天安門事件によって、改革開放は期待したようには進まなかった。中国国内でも大ヒットしたらしく、それにあやかって「芙蓉鎮でおなじみの米豆腐」という看板を出した屋台が登場した。この屋台の米豆腐がどのような味であったのか、あまり憶えていない。しかし、勝手に想像していた、さっぱりとした米製の豆腐に辛くてこってりとしたタレがかかった味とはほど遠いものであった。映画は湖南省が舞台であったから、もしかすると、湖南省に行けばおいしい米豆腐が食べられるのかも知れない。
 羊肉串。必ず食うもの。シシカバブーである。羊肉串は、思い入れの深い食い物で、夜市以外にもいくつかの場所で食べているので、別の項で詳しく述べたいが、夜市の羊肉串について、簡単に書こう。王府井から一番遠い端に、ウイグル族の羊肉串の屋台が三軒並んでいる。別々の店のはずだが、競い合っているようにも見えず、後ろでは三軒の店員たちが仲よさそうにいつも話していた。炭火焼でいいにおいの煙を上げている。一時期、鉄板焼きに変わったことがあった。一番端にあるので、必ず最後にここで五本くらいを食べて、夜市の買い食いは終わる。

 この夜市に私が行ったのは、1990年の夏から翌91年の冬にかけてであったが、それ以前、少なくとも1986年頃にはなかったようだ。友人が86年に北京に留学しており、既に改革開放の時代になってはいたが、夜市のような極めて自由な雰囲気の商売は、まだほとんど登場していなかったらしい。
 その後、私は何回か北京に行ったが、まったく消滅していた時もあり、何か法令か風紀上の都合によるだろうが、朝令暮改の国であるので、落胆はするが驚きはしない。最後に北京に行った2006年か、もっと以前だったか、その時に夜市のあたりを通りかかったが、まったく様相が変わっていた。かつては店によって屋台の組み方はてんでんばらばらであったものが、すべて統一され、同一の赤い提灯で飾り付けがしてあった。当局が、規制するよりは観光名所にでもしようとしたものだろうか。その様子を見て、私は行く気がなくなってしまった。
 もっとも、それ以前から、北京の夜市は観光客が集まるところではあったようだ。私は北京に留学して間もない頃、この夜市に行った喜びを、学校の中国語の老師(先生)に話した。私が北京の庶民の文化を好きであることを、この老師にアピールすることで老師に喜んでもらい、さらに私自身に好感を持ってもらえると打算したのである。ところが、この年輩の女性老師は「あんなところは、不潔であり、北京のきちんとした中学生などは決して近寄らない場所である。あのような所に行くのは、地方から来た無知な観光客だけである」という意味のことを言った。しかし、それは本当のことであったかも知れない。彼女は体制寄りの愛国者という雰囲気や言動があり、彼女からすれば、あのような場所は前近代的であり、中国共産党の指導方針とは異なる文化である、と思っていた部分もあるだろう。天安門事件の翌年という時代背景もあったかも知れない。
 いずれにしても、あの夜市が、北京の街に現出することは、二度とないであろう。
<岩>