僕のTOKYO1964 〜五島プラネタリウムの夕暮れ〜

 1964年生まれの私が小学校3、4年の頃だから、1970年代の半ばだろう、渋谷の五島プラネタリウムに毎月のように通った。
 ひんぱんに行くようになったきっかけは忘れてしまったが、いつも同じ社宅の1つ2つ年上の子らと一緒に行ったのだから、彼らに誘われたものだろう。
 住んでいた社宅から最寄りの巣鴨駅までは子どもの足でも数分だし、渋谷駅からプラネタリウムがあった東急文化会館までは直通の通路で行けたから、小学生だけで行っても問題はなかった。それにあの頃の渋谷は、きっと今ほどは殺気立っていなかった。
 文化会館もプラネタリウムも高度経済成長期前にできたものらしく、コンクリートや石材をたっぷりと使い、パネルやアルミ材は見当たらないような、味わいのある古びたビルだった。
 エレベーターで最上階まで昇って切符を買い、“もぎり”を抜けてガラス戸の中に入ると、円形の廊下には、掲示物や天体望遠鏡の模型といった資料が展示してあった。
 こういう理科の教材というものは、今はどうか知らないが、私が小学生や中学生の頃は、ていねいに作った木工細工に塗料が塗ってあり、たいてい埃をかぶっていて、温かみのあるものだった。
 そういう資料が並んでいるプラネタリウムの廊下は、古い理科室のような雰囲気があり、子どもの理科教育に資するというような何ともまじめな感じが、子どもながらに私は好きだった。
 もちろんプラネタリウムの星空の投影はすばらしく、ゆったりとした音楽とすてきな解説を聴きながら、星空を見上げているのは夢のようだった。


 しかし、私がいちばん好きだったのは実は星空が投影される前の“夕暮れ”であった。
 解説員が「今日の東京の日の入りは17時41分です」と静かな口調で言うと、真っ白だった丸天井がいくぶん暗くなってくるような感じがする。天井は明るければ真っ白いだけでなく、四角い石を組んだエスキモーの氷の家のような構造であることが微かに浮かび上がっている目地で分かった。
 その目地が少しずつ判別できなくなり、巨大な天井の色の変化に自分の目を疑いながら、なおも背もたれを倒した椅子に座って目を天空に向けていると、やはりわずかに暗くなったのだろう、白い太陽の輪郭が確認できる。それは驚くほど小さく、西の地平線へ向かって動いて行く。
 ドームの裾野の円周には、非常口の表示と東西南北の方角を示す表示が光り、そしてこの東急文化会館から見られるという360度の景色がシルエットになっている。夕暮れ時のこのシルエットを見るのが、たまらなく好きなのだ。


 いつの間にか、上空はだんだんとうす暗くなって、西の空はほんのりと赤く染まりかけている。思わぬ所から月が出てきているのを、解説員が教えてくれる。くっきりと浮かび上がったシルエットを、解説を聴きながら追う。
 東には、数年前まで最高層ビルディングであった36階建ての霞ヶ関ビル、有楽町と銀座あたりには時計塔やデパートのアールデコのシルエット、そこから北へ視線を移していくと蔵前国技館、浅草の五重塔はちょうど再建された頃だろう、遠く千葉と茨城の平野を見晴るかす筑波山、近くには本郷の台地、そして遠くに荒川氾濫原の低地は工場地帯。
 我が駒込巣鴨方面から、さらに北に移るとすぐ手前に神宮の森、まだ数が少ない新宿高層ビル、池袋のサンシャイン60は存在していなくて、だんだんと秩父の山々が見えてくる。そして奥多摩の山、なだらかな多摩丘陵をぐるっと左に回って、圧巻は丹沢を従えた富士山の堂々たるシルエット。
 いつのまにか西の空は真っ赤に染まっている。宵の明星、金星も見えてきたようだ。
 急いで、真南に当たる川崎丘陵からさらに視線を回すと、ほんの少しだけ真っ平らな東京湾の海が見え、東南東には芝増上寺の黒い大屋根。


 太陽は、沈んだ。東は真っ暗で何も見えなくなっている。名残りを惜しむように、もう一度すばやく西の地平線を見るが、ここにも赤い光がわずかで、それも、すぐに、消えた。解説員の声で我に返ると、真上はもう満天の星空だ。
 五島プラネタリウムが閉館してからもう10年以上経っただろう。そしてあの夕暮れのシルエットは、あの頃の風景とともに永遠に消えてしまった。