京劇の夜

 前に北京へ行った折り、中国の伝統楽器の音楽テープをたくさん購入してきた。シリーズもののようになっていて、それぞれの楽器ごとの曲集として19種類を買った。中国の伝統楽器、とりわけ漢民族を中心とした伝統楽器が何種類あるのか私は知らないが、その店にあったそのシリーズすべてで19種類であったので、まあそれなりに主な楽器は網羅していたと思う。内訳は、管楽器が5種類、打楽器が1種類、弦楽器が13種類で、弦楽器のうち擦弦楽器(弓でこする弦楽器、胡弓の仲間など)が4種類であった。
 管楽器は横笛や縦笛のようなもの、パンフルートのようなもの、それにいわゆるチャルメラである。このチャルメラは「鎖吶(さとつ、スォーナー)」と書き、アジア各地で使われているダブルリードの木管楽器である。アジアでは、大きく明るい音を出す管楽器としては、金管楽器よりもこちらの方が一般的なようだ。むしろ角笛や日本のほら貝のように唇を振動させる管楽器は、アジアでは少数派のようである。ちなみに、テープに録音されていた鎖吶の演奏は、超絶技巧のすさまじいものであった。
 弦楽器には胴が薄く丸い大小の月琴タイプのもの、沖縄の三線(サンシン)とほぼ同じ三弦という楽器、日本の琴と同じタイプのものもある。揚琴という楽器は、ヨーロッパのロマたちが使う、台に張ったたくさんの弦を二本のばちで叩いて音を出すタイプのもので、ピアノやチェンバロの先祖の楽器だ。こうした楽器はシルクロードを通じて、中国からヨーロッパへ、あるいは中央アジア付近から双方の範囲にまで広がったのだろう。西洋のハープとそっくりな弦楽器もある。
 擦弦楽器の四種類は、胴の大きさや形がそれぞれ異なる。私たちが普通に胡弓(こきゅう)と呼んでいるのは二胡(にこ、アルフ)というものだ。他に高胡、京胡、擂琴というものがある。

 このうち、京胡(きょうこ、ジンフ)という楽器は、最も小さく高音がよく出る。京劇で特に好まれて使われるためにこの呼び名があると聞いた。京劇は北京の伝統的な歌劇で、日本でいえば歌舞伎のようなものだろうか。欧米ではPeking opera(ペキンオペラ)とも呼ばれる。
 私が、中国の伝統楽器に興味を持ったのは、十数年前に半年ほど北京に遊学をした時に、京劇を毎週のように観に行ったからだ。私は、台詞はよく分からず、劇の内容に関しては、いつも、古典戯曲の研究をしている日本人留学生の友人に解説してもらっていた。しかし私がいつも関心を持っていたのは、京劇という歌劇の音楽であり、奏される伝統楽器であった。
 ヨーロッパの歌劇ではオーケストラは舞台前面下のオーケストラボックスの中にいるが、私が通った劇場では舞台上手(かみて)の袖に10人ほどが陣取っている。したがって上手や後ろの席ではその楽団の姿はまったく見えないが、下手(しもて)側の前列に座ると、奏者の動きまでもがよく見えるのである。私は、よくそうした席に座った。
 二胡や京胡、月琴の仲間、鎖吶、それに独特の太鼓や鉦(かね)、銅鑼などを、何人かの奏者は掛け持ちで、役者の歌の伴奏や間奏曲、効果音などとして忙しそうに演奏する。

 ある冬の日のある演目で、くだんの友人が、今日は京胡の名手がソロを弾くらしい、と教えてくれた。舞台では役者が主人公であるから、演奏者が注目されることは珍しい。私は例によって下手の一番前に陣取って、始まるのを待った。
 京劇のファンは北京のお年寄りたちで、特に男性が多い。ぱりっとした人民服を着てやはり前の方の席に陣取っているのが常だ。ひいきにしている女優が美声を発したり、見事な立ち回りが決まったりすると「好(ハオ)! 好(ハオ)!」と盛んに声を掛けるのも常のことである。
 その演目が始まり、やがて、歌の伴奏ではない、京胡奏者の文字通りのソロが始まった。すぐに激しい調子になった。奏者は若い男性である。ひざに四角い布を置き、そこに小さな京胡を垂直に立てて左手で支えながら細かくすばやい運指をする。右手には弓を持って激しく動かしている。
 弓には松やにが塗ってあるのだろう、ぱっ、ぱっ、と白い粉が弓から飛び出し、舞台天井からの白熱灯を受けて光り、奏者のひざの上に散る。まるで弓が燃え上がり、煙を出しているかのようだ。ひざの上の布には見る見る松やにの粉が積もって白くなっていく。楽譜はなく、奏者の顔は下向きで前髪が額に低く掛かり、表情はまったく見えない。上半身だけが弓の動きに引き回されるように前後左右に大きく激しく揺れる。
 やがて曲は穏やかな調子になり、ソロは終わり、歌の伴奏に戻った。その瞬間、客席からは激しく「好! 好!」の声が上がった。私も同じように叫んだ。京胡奏者は静かに顔を上げた。

 私は、あの京劇の夜を思い出すたびに、あの若い京胡奏者がどのように家路に着いて、そしてどのように寝床に入ったのかを想像する。
 元気よく晴れやかに自転車をこいで、誇らしげに上機嫌で家路をたどり、そうして満足の表情でベッドに入ったのか。
 いや、私の想像は、そうではない。彼はいつものように規則正しく自転車のペダルをこいで帰宅し、黙って念入りに楽器の手入れをし、静かに身支度を解き、ゆっくりとベッドに入ったのではないだろうか。

僕のTOKYO1964 〜五島プラネタリウムの夕暮れ〜

 1964年生まれの私が小学校3、4年の頃だから、1970年代の半ばだろう、渋谷の五島プラネタリウムに毎月のように通った。
 ひんぱんに行くようになったきっかけは忘れてしまったが、いつも同じ社宅の1つ2つ年上の子らと一緒に行ったのだから、彼らに誘われたものだろう。
 住んでいた社宅から最寄りの巣鴨駅までは子どもの足でも数分だし、渋谷駅からプラネタリウムがあった東急文化会館までは直通の通路で行けたから、小学生だけで行っても問題はなかった。それにあの頃の渋谷は、きっと今ほどは殺気立っていなかった。
 文化会館もプラネタリウムも高度経済成長期前にできたものらしく、コンクリートや石材をたっぷりと使い、パネルやアルミ材は見当たらないような、味わいのある古びたビルだった。
 エレベーターで最上階まで昇って切符を買い、“もぎり”を抜けてガラス戸の中に入ると、円形の廊下には、掲示物や天体望遠鏡の模型といった資料が展示してあった。
 こういう理科の教材というものは、今はどうか知らないが、私が小学生や中学生の頃は、ていねいに作った木工細工に塗料が塗ってあり、たいてい埃をかぶっていて、温かみのあるものだった。
 そういう資料が並んでいるプラネタリウムの廊下は、古い理科室のような雰囲気があり、子どもの理科教育に資するというような何ともまじめな感じが、子どもながらに私は好きだった。
 もちろんプラネタリウムの星空の投影はすばらしく、ゆったりとした音楽とすてきな解説を聴きながら、星空を見上げているのは夢のようだった。


 しかし、私がいちばん好きだったのは実は星空が投影される前の“夕暮れ”であった。
 解説員が「今日の東京の日の入りは17時41分です」と静かな口調で言うと、真っ白だった丸天井がいくぶん暗くなってくるような感じがする。天井は明るければ真っ白いだけでなく、四角い石を組んだエスキモーの氷の家のような構造であることが微かに浮かび上がっている目地で分かった。
 その目地が少しずつ判別できなくなり、巨大な天井の色の変化に自分の目を疑いながら、なおも背もたれを倒した椅子に座って目を天空に向けていると、やはりわずかに暗くなったのだろう、白い太陽の輪郭が確認できる。それは驚くほど小さく、西の地平線へ向かって動いて行く。
 ドームの裾野の円周には、非常口の表示と東西南北の方角を示す表示が光り、そしてこの東急文化会館から見られるという360度の景色がシルエットになっている。夕暮れ時のこのシルエットを見るのが、たまらなく好きなのだ。


 いつの間にか、上空はだんだんとうす暗くなって、西の空はほんのりと赤く染まりかけている。思わぬ所から月が出てきているのを、解説員が教えてくれる。くっきりと浮かび上がったシルエットを、解説を聴きながら追う。
 東には、数年前まで最高層ビルディングであった36階建ての霞ヶ関ビル、有楽町と銀座あたりには時計塔やデパートのアールデコのシルエット、そこから北へ視線を移していくと蔵前国技館、浅草の五重塔はちょうど再建された頃だろう、遠く千葉と茨城の平野を見晴るかす筑波山、近くには本郷の台地、そして遠くに荒川氾濫原の低地は工場地帯。
 我が駒込巣鴨方面から、さらに北に移るとすぐ手前に神宮の森、まだ数が少ない新宿高層ビル、池袋のサンシャイン60は存在していなくて、だんだんと秩父の山々が見えてくる。そして奥多摩の山、なだらかな多摩丘陵をぐるっと左に回って、圧巻は丹沢を従えた富士山の堂々たるシルエット。
 いつのまにか西の空は真っ赤に染まっている。宵の明星、金星も見えてきたようだ。
 急いで、真南に当たる川崎丘陵からさらに視線を回すと、ほんの少しだけ真っ平らな東京湾の海が見え、東南東には芝増上寺の黒い大屋根。


 太陽は、沈んだ。東は真っ暗で何も見えなくなっている。名残りを惜しむように、もう一度すばやく西の地平線を見るが、ここにも赤い光がわずかで、それも、すぐに、消えた。解説員の声で我に返ると、真上はもう満天の星空だ。
 五島プラネタリウムが閉館してからもう10年以上経っただろう。そしてあの夕暮れのシルエットは、あの頃の風景とともに永遠に消えてしまった。

北京夜市

 子どもの頃から、祭の夜店の食い物が好きであったから、北京に屋台が、それも毎晩のようにたくさんの食い物の屋台が出る通りがあることを知った時には、うれしかった。夜になると出現するので「夜市」という。
 留学していた時、週に一遍くらいは京劇を観に行っていた。その劇場は、北京の中心街に近いが、金魚胡同(路地)を入った所にある小さくて庶民的な吉祥劇院という劇場だった。この胡同が直角に交わる王府井(ワンフーチン)大街という大通りを挟んだ向こう側に、王府井大街とやはり直角に交わる東安門大街という、大街というほどには大きくない通りがあり、ここに夜市が出るので、観劇の前にいつもそこで腹ごしらえをした。
 北京には当時、こうした夜市が三カ所くらいあったようだが、この東安門の夜市が最大だったように思う。あれで何軒くらい並んでいるのだろう、百軒近くあっただろうか、一度も数えようとしなかったのが惜しまれる。もちろんすべて食い物の屋台である。
 どの屋台も組み立て式であり、昼間その通りは車の通行するごく普通の道路である。ここに、夜毎市中のどこからか、自転車のサイドカーやリヤカーに、屋台の骨組み、プロパンのボンベ、コンロや調理器具、食器それに食材など一式を山のように積んだ人たちが、三々五々集まって来て、日没を待つように営業を始めるのである。
 ここにありとあらゆる食い物屋が並んでいるのだが、この中に私が、必ず食うもの、ときどき食うもの、以前に食ったことがあるがその後は食わなくなったもの、食ったことのないもの、とある。それぞれにもちろん名前があるが、私はほとんど記憶していない。だいたいいつも食う順番に記してみよう。

 ニラと卵を丸く揚げたもの。必ず食うもの。油がたっぷり入った鍋が二つ、少し高さに差をつけてぴったりと二つ並んでいる。油の温度が違うと聞いた。どちらが高くどちらが低いのかは忘れてしまった。中華の鉄のお玉に、トロッとした生地と粗く切ったニラと卵を落とし、これを鍋の油の中に落とす。しばらくしたら、もう一方の鍋に移し、さらにしばらくすると、バットに上げる。これを、古雑誌を切った紙に包んで手に持って食う。卵は中が半熟だが、とにかく熱く、これを氷点下の寒さの中で食うのは格別であった。この屋台は一番端(王府井大街寄り)にあったため、必ず最初に食った。この店は段々と評判になったようで、次第に混みはじめ、後には類似店が二、三軒出るようになった。
 醤油焼そば。ときどき食うもの。たぶん、日本の焼そばと同様に、麺を蒸かしたものを炒めたのだろう。ただ、中国の多くの麺は、日本の中華麺とは異なりあまり鹹水を混ぜない麺が多く、この焼そばの麺が鹹水を入れた中華蒸かし麺であるかどうかは不明だ。具は、ニンジンとタマネギだったか。これを醤油で味つけしてあり、上に香菜が少しかかっている。単純な料理だが、薬味に、白酢に入った刻みニンニクや唐辛子の油漬けを適宜掛けると結構うまかった。私はこのニンニクをいつもたっぷりと掛けた。この二つの薬味と黒酢は、以下、どの麺類や汁物の屋台にも備えてある。麺類は後述するようにいくつかあるので、その日によってどれを食うか選んでいた。
 臓物を厚揚げやパンと一緒に煮込んだもの。必ず食うもの。おそらくマレーシアやシンガポールの名物料理である、肉骨茶(バクテー)の変形であろうと思う。ずっと後になって、マレーシアで肉骨茶を食って、そう思い至った。マレーシアのそれはもっと漢方薬くさいものであったが、北京の夜市のこれは、薄口の醤油味で、意外にあっさりしたものだった。大鍋にいろいろな臓物、豚の臓物であろう、これが大きな塊のままに入っていて、腸などはのたくっている。こういう様子は、日本人ならば「気持ちが悪い」と思う向きもあるだろうが、きっと肉食文化が長い人たちにはむしろ食欲をそそる景色なのだと思う。注文すると、これらの臓物を鍋から引き上げて、中華独特の丸太の輪切りのまな板の上で、これも大きな中華包丁で、大仰に叩き切る。そして厚揚げとパンと一緒に丼に入れる。パンというのは丸い塊だが、よほど堅いのかぐずぐずになっているわけではない。ただ、このパンでお腹がいっぱいになってしまうのは、少食な私には難点であった。
 四川担々麺。ときどき食うもの。本格的な四川の担々麺とは違うかも知れない。細い麺に真っ赤な汁が掛かっており、何やら細く刻んだ漬け物がのっている。油っ気は多くなく、軽い麺類であった。「四川担々麺! おいしくて、やすいよ!」といつも女の売り子が大声で客を呼んでいた。器は小さく、味噌汁椀ほどのもので、ほかの麺類もそうだが、おかげでいろいろな麺類、汁物を愉しむことができる。
 牛肉拉麺。ときどき食うもの。蘭州名物だというが、やはりこれも蘭州のものにどれだけ近いのかは不明である。「拉」麺つまり麺を引っ張って伸ばすのだが、まあまあうまい。汁はあまり工夫がない。サイコロのような牛肉の煮たものがわずかに入っており、上に香菜がかかっている。薬味をたくさん入れて食うので、うまく感じていたのかも知れない。
 センマイ煮込み。以前に食ったことがあるがその後は食わなくなったもの。それまで臓物のセンマイなるものを食ったことがなかったので、いかにも臓物然としており、うまいものだろうと思ったが、至極あっさりとして、しかもなかなか噛み切れないため、数回食ってから食わなくなった。もっとも、センマイはあまり味がなく、歯触りが身上の臓物のようなので、この夜市のセンマイ煮込みが不味だったわけではないかも知れない。
 包子。ときどき食うもの。小さな肉饅頭である。小さい蒸籠に三つくらい入っていたもので一人前であったと思う。中華料理の点心として想像できる味で、まあ、うまいものであった。黒酢をつけて食べたように記憶している。屋台の台の上に、生のニンニクが皮のついたまま、いつも転がしてある。欲しい人は、勝手に自分で皮をむいて、饅頭と一緒に齧るようになっていて、こうやって食べるのはけっこう病み付きになる。中国の人はこういう食べ方をするのかと感心した。
 エビ揚げ。以前に食ったことがあるがその後は食わなくなったもの。屋台の群れの中に、何軒か串揚げの店があった。何種類かの材料を(鶏肉などもあったろうか)揚げているが、エビは大きなものが二本くらい串に刺さって、いい色に揚がっている。たが、これは何とも胸の悪いなるような味であった。油がどうもひどいようだ。「万年油」と呼ばれて、古くなって酸化したようなものを使っているとも聞いたことがある。しかし、前述のニラと卵揚げはそんなことはなかった。何よりエビも鮮度が悪いのだと思う。北京は内陸だから、新鮮な海産物は、高度な冷凍技術と物流がなれければ、手に入らない。
 サソリ揚げ。食ったことのないもの。やはり串揚げの屋台のひと品である。わざわざサソリを串揚げにして食うというのは、中国医学的に健康に役立つということもあるだろうし、観光客などが吃驚するという効果もあるのだろうか。私は、気味が悪いし、それほど美味とも思えないので食わなかった。それに値段もやや高かったように思う。ほかにも、カイコの幼虫の串揚げなどもあった。
 ワンタン。ときどき食うもの。具が入っているのかいないのか判らないようなワンタンが、薄いスープに漂っており、上に香菜がかかっている。スープには、小さな干しエビが浮いているが、出汁というほどの味もない。しかし、ここに、白酢ニンニク、黒酢、唐辛子油漬けをたくさかけて食べると、香菜の香りもよく、意外にいけるのである。さて、ほかの麺類にも香菜がかかっているものがあるが、食べる時には、まずこの香菜を熱い汁によくつけてから食べるようにすべしである、といわれていた。香菜は生なので、感染症予防のためである。
 白い汁粉。以前に食ったことがあるがその後は食わなくなったもの。夜市にはデザートもある。その一つ、というより、これ以外には甘い食べ物はなかったのではないか。これは豆を甘く煮て飲むもので、つまりは汁粉であるが、味つけには何種類かあったように思う。私は甘いものも好きだが、どうも夜市で甘いものを食べる気にならず、また、この飲み物があまり口に合わなかったようで、一度味わっただけであった。巨大なポットに入っている温かい汁を、陶器の椀に入れて供する。
 炒め粒麺。以前に食ったことがあるがその後は食わなくなったもの。イタリアの麺類は、必ずしもそば状のものばかりではなく、平べったい板状のものや、貝殻のようなマカロニの類いもある。中国も同じらしく、どちらが元祖かとはいえないが、直径一センチから二センチくらいの粒状の“麺”を炒めたものが、夜市にあった。この生地を指でつぶして延ばすと、貝殻マカロニになるのだろう。今思うと小さなニョッキのようである。最初に見たときは、豆を炒めたものかと思った。私が食べたものは、歯ごたえも味も今ひとつで、その後食べなくなってしまった。味は、薄い醤油味で、焼そばと同じであったように記憶している。
 米豆腐。以前に食ったことがあるがその後は食わなくなったもの。1987年の中国映画『芙蓉鎮』(日本では1988年に公開)に登場する軽食である。文化大革命批判の映画であり、改革開放の中国を予見させるような映画であったため、当時、中国に興味のある日本人が挙って観た映画である。実際には、1989年の天安門事件によって、改革開放は期待したようには進まなかった。中国国内でも大ヒットしたらしく、それにあやかって「芙蓉鎮でおなじみの米豆腐」という看板を出した屋台が登場した。この屋台の米豆腐がどのような味であったのか、あまり憶えていない。しかし、勝手に想像していた、さっぱりとした米製の豆腐に辛くてこってりとしたタレがかかった味とはほど遠いものであった。映画は湖南省が舞台であったから、もしかすると、湖南省に行けばおいしい米豆腐が食べられるのかも知れない。
 羊肉串。必ず食うもの。シシカバブーである。羊肉串は、思い入れの深い食い物で、夜市以外にもいくつかの場所で食べているので、別の項で詳しく述べたいが、夜市の羊肉串について、簡単に書こう。王府井から一番遠い端に、ウイグル族の羊肉串の屋台が三軒並んでいる。別々の店のはずだが、競い合っているようにも見えず、後ろでは三軒の店員たちが仲よさそうにいつも話していた。炭火焼でいいにおいの煙を上げている。一時期、鉄板焼きに変わったことがあった。一番端にあるので、必ず最後にここで五本くらいを食べて、夜市の買い食いは終わる。

 この夜市に私が行ったのは、1990年の夏から翌91年の冬にかけてであったが、それ以前、少なくとも1986年頃にはなかったようだ。友人が86年に北京に留学しており、既に改革開放の時代になってはいたが、夜市のような極めて自由な雰囲気の商売は、まだほとんど登場していなかったらしい。
 その後、私は何回か北京に行ったが、まったく消滅していた時もあり、何か法令か風紀上の都合によるだろうが、朝令暮改の国であるので、落胆はするが驚きはしない。最後に北京に行った2006年か、もっと以前だったか、その時に夜市のあたりを通りかかったが、まったく様相が変わっていた。かつては店によって屋台の組み方はてんでんばらばらであったものが、すべて統一され、同一の赤い提灯で飾り付けがしてあった。当局が、規制するよりは観光名所にでもしようとしたものだろうか。その様子を見て、私は行く気がなくなってしまった。
 もっとも、それ以前から、北京の夜市は観光客が集まるところではあったようだ。私は北京に留学して間もない頃、この夜市に行った喜びを、学校の中国語の老師(先生)に話した。私が北京の庶民の文化を好きであることを、この老師にアピールすることで老師に喜んでもらい、さらに私自身に好感を持ってもらえると打算したのである。ところが、この年輩の女性老師は「あんなところは、不潔であり、北京のきちんとした中学生などは決して近寄らない場所である。あのような所に行くのは、地方から来た無知な観光客だけである」という意味のことを言った。しかし、それは本当のことであったかも知れない。彼女は体制寄りの愛国者という雰囲気や言動があり、彼女からすれば、あのような場所は前近代的であり、中国共産党の指導方針とは異なる文化である、と思っていた部分もあるだろう。天安門事件の翌年という時代背景もあったかも知れない。
 いずれにしても、あの夜市が、北京の街に現出することは、二度とないであろう。
<岩>

高校吹奏楽部の思い出

 私が入った高校は、東京の北の外れにある都立高校で、創立してからまだ新しく私は第七期生であった。
 入学式後、数日もしないうちに私は楽器の音を頼りに練習場所へ行ってみた。しかし、そこは音楽室ではなく家庭科室であった。あたたかく歓迎してもらってさっそく入部したのだが、どうも様子が変だ。
 元気の良い音が響いている割りには人数が少ない。ティンパニも大太鼓もない。女子の先輩が吹いているのはフレンチホルンではなくてメロフォンだ。それも二人が交代で吹いている。そして私に与えられたユーフォニアムは、なぜかベルが前を向いていてピストンが斜めに並んでいる奇妙なものだった。
 次の日は体育館の倉庫が練習場所に当てられた。もちろん部員全員がそこで練習するのである。
 この高校の吹奏楽部は、その時できてからまだ二年ほどだという。私が入学した時の三年生の先輩が、職員室にお百度を踏んでようやく創立したのである。いや、創立はしていなかった。合唱の活動をしている音楽部の“おまけ”として吹奏楽部門がくっついているだけなのである。音楽部ブラスバンドというのが正式な名称であった。
 したがって、音楽室を主に使えるのは合唱部門の方で、吹奏楽の方は、家庭科室や体育倉庫を、音楽室が使えない時には練習場所として与えられた。後で知ったことだが、これらの場所を確保するのも大変な苦労があったそうで、それまでは全員で楽器をかついで毎日のように荒川の土手へ行っていたという。
 人数も少ないが楽器もまったく足りていない。フルートやクラリネット、トランペットやトロンボーンの一部が個人持ちで、あとはすべて他校からの借り物であった。メロフォンは、その時にフレンチホルンすら借りられなかったことを意味していた。音楽部の所有の楽器というものがまったく無かったのである。
 私のユーフォニアムもその借り物のひとつで、ベルが前を向いているのは、その当時でもあまりにも古くて使われることのない「フロントベル」と呼ばれるタイプのものであった。今思うと形もおもしろくて音にも異常がなかったのだから、悪い楽器ではなかったが、使うのは何だか恥ずかしいような気がしていた。しかし、貸してくれる学校の都合で、時として普通のユーフォニアムが来ることもあった。といってもヤマハの3本ピストンのラッカー仕上げのものであったが、当時はそれの方がフロントベルよりもうれしかった。


 借り物は期限があって、いったん返してまた借りることを繰り返すので、私は先輩たちとしょっちゅう楽器借用の小旅行に出かけた。東京郊外の畑の中にある公立高校へ行くことが多かった。
 私のユーフォニアムや、メロフォンの他にもさまざまな楽器を借りた。テューバは、当時はマッコウクジラのような巨大なハードケースに入っていて、下にはすぐに壊れる小さなキャスターが付いており、これを押したり引いたりして畑の中の小道から私鉄電車、そして池袋の駅の地下街を、他の楽器ケースを担いだ部員たちとともに歩いた。不思議と後輩だからといって大きな楽器ばかりを運ばされることはなく、どの楽器を運ぶのかはたいていジャンケンで決まった。私はよくジャンケンに負けた。
 しかし、池袋の駅の地下街へ入ると、先輩たちがいっせいに喫煙を始めるのには閉口した。私の学校はそれほど悪い学校ではないし、先輩たちも特に非行生徒というわけではないので、これも不思議だった。私は先輩に言われて制服のブレザーの襟に付いている校章を外し、どうしても斜めに歩きたがるマッコウクジラを懸命に押しながら、小さくなって列の後ろから付いて行った。
 けれども私は、毎日の練習が楽しくて仕方がなかった。楽器が足りないことや練習場所に不自由している点では、盛んでなかった中学校の吹奏楽部(この学校では器楽部というのが正式名称だった)の頃よりもひどいものだったが、数少ない同期の一年生の中にも熱心な者がいたし、何よりも先輩たちが一所懸命に練習している。人数の割には元気な音が響いているのはそのせいだったのだろう。
 創部のために奔走したK先輩は、吹奏楽で有名な中学校でトロンボーンをやっていた人で、たった一人しかいない新入部員でもあるユーフォニアムの私を熱心に指導してくれた。


 春も終わりに近づいた頃、K先輩から、コンクールに向けての練習を始めることを告げられた。一九八〇年度のコンクールである。
 その時の高校のコンクールの出場枠は、編成人数によってA、B、Cと三つに分かれていた。Aは五十人、Bは三十五人、Cは二十人であったと思う。
 私たちの高校は、C編成への出場に最初から決まっていた。部員の人数はかろうじて二十人以上はいたが、三十五人にははるかに届かない。
 私は部内のたった一人のユーフォニアムなので、一年生とはいえ二十人から外れることはないだろう、と密かに思っていたが、K先輩は「お前が上達しなかったら、俺がトロンボーンと持ち替えでユーフォニアムを吹いて出るからな」という。
 当時は、第何次かの吹奏楽ブームの前だったからC編成でしか出られない高校もたくさんあり、金賞、銀賞、銅賞の各賞も枠が決まっていた。したがって私は、自分が本番に乗ることができるかどうかと、乗ったとしたら金賞がとれるかどうかの二つの意味で頑張らなければならなくなった。
 課題曲は行進曲の「オーバー・ザ・ギャラクシー」、自由曲はK.Lキング作曲の「インドの女王」と決まった。
 この「インドの女王」という曲は、現在はほとんど演奏されることもなく、知っている人も少ないようだが、その昔(この思い出話が三十年以上前で、それよりもさらに昔である)、吹奏楽の世界で流行した曲だそうで、先輩らが「審査員の年齢層から考えればこの曲は受けが良いはずだ」との思惑もあって選曲されたと、あとで聞いた。私にはこの曲は、個人的なノスタルジーがあるにしても名曲だと今でも思っている。


 練習は、夏休みになるとすぐに佳境に入り、文字通り朝から晩まで吹き続けた。
 しかし、そんな中でやはりたった一人のテューバである二年生のD先輩だけは、さっぱり個人練習をしている様子がない。すぐに姿をくらましてしまう。どこかへ麻雀をやりに行っているという噂であった。
 それが、合奏の時になると、いつの間にか現れる。そして指揮の先生に名指しされて一人で吹かされると、これが不思議なことに完璧なのである。一度耳で聴いただけのピッコロの部分をすぐに“耳コピー”して吹いたり、さらにそれをいくらでも移調したりもしていた。音楽的には非常に才能があったのだろう。
 夜は公園で練習する。私はまじめにやっているのだが、このD先輩がロケット花火を飛ばして遊んでいる。他の先輩もタバコを吸いながら笑って見ている。そのうちロケット花火の標的が私になってきて、おかげで一発、ユーフォニアムのベルに命中してしまった。先輩たちはタバコの煙にむせながら大笑いをしていた。
 それでも、幹部の先輩たちは普段はあちこちのパートを飛び回って、大汗をかいて指導していたし、皆も必死になって付いていった。
 ところが、楽器不足は相変わらずで、何とかかき集めたものの、ティンパニだけはとうとう借りることができなかった。
 ティンパニ担当のB先輩は、毎日、四つの机に向かって練習していた。つまり一つの机を一台のティンパニに見立てて、それぞれの机にチョークで音を表わすアルファベットを書いて、マレットでデコデコと叩くのである。
 本番まで借りる当てはない。本番の時だけ、会場の楽器(あるいは前に出演した学校のものだったか)を借りることができる。つまり文字通りのぶっつけ本番ということである。しかしこのB先輩は愚痴ひとつ言わずに、毎日朝から晩までひたすらデコデコと机を叩き続けていた。
 指導に忙しいK先輩だが、合奏では見事な演奏をしていた。歌う部分では柔らかい音でビブラートを効かせるが、フォルティッシモでは、びっくりするほど大きな音が出た。これならトロンボーンが二人でも迫力の演奏になる。トランペットの同級生A君は、あまりイヤらしい歌い方は好まないらしく、素直な透明感のある音で、特に高音が美しかった。その他にも、フルートやクラリネットにうまい先輩や同級生が何人かいた。私は自分の下手さを嘆いても始まらないので、とにかく一人で練習を続けた。
 二十人編成というと、フルート二、クラリネット三、アルトサックス一、テナーサックス一、ホルン三、トランペット三、トロンボ−ン二、ユーフォニアム一、テューバ各一、パーカッション三といったところだったと思う。私は、どうにかそのユーフォニアムパートの一人枠に入ることができた。
 本番はどうであったかあまり記憶にない。ただ、ティンパニが思う存分に叩きまくっていた憶えがある。
 結果は、金賞であった。
 私は、あの夏のことを思い出すだびに、私たちがそれでも金賞を取ることができた理由を考えようとする。しかし思い浮かぶのは、K先輩の叱咤激励と、背を丸めて譜面に向き合う私自身の後ろ姿と、机ティンパニのデコデコ音だけである。
 今、私の手元には、すさまじい書き込みで判読困難な「インドの女王」の譜面が残っている。あのフロントベルのユーフォニアムは、今どこにあるか私は知らない。

3月10日ー母が体験した東京大空襲

 私の母が子ども時代を過ごしたのは、現在の墨田区向島付近、戦前の向島区寺島町界隈であった。
 大正時代、おそらく関東大震災後の復興を期に、会津から出て来た私の祖父と、同じく会津から出て来た祖母との間に生まれた。
 祖父は電気の専門学校、祖母は看護学校を卒業しており、震災後から昭和初期にかけて大いに活躍の場があったことだろうと思う。
 実際、祖父は当時のその界隈では珍しく背広を着て丸の内まで通勤していたそうで、母が長女、その下に男の子4人の子どもたちは、それほどの不自由もなく暮らしていたようである。
 休日には着飾って、浅草へ遊びに行ったとも聞いた。ターザンの映画を観て、松屋デパートの食堂で食事をするのが大きな楽しみであったそうだ。

 そうした生活は、太平洋戦争末期の1945年3月10日未明、東京大空襲ですべて失われた。
 これは、母から繰り返し聞いた話しである。

 母は12歳で、一番下の弟を祖母が背負い、下から2番目の弟の手を母が引き、長男と次男と5人で逃げ惑った。祖父は出張で福島に行っており、留守であった。
 夜半の空襲警報に続いて、ヒューッ、ヒューッという音とともに、ものすごい数の焼夷弾が降ってきた。母は今でも打ち上げ花火のヒューッという音を聞くと、空襲を思い出して、怖くなるという。

 家を出ると、あたりはどんどん火に包まれ、火の粉が舞っていた。路地には逃げようとする人がいっぱいだった。
 その時、母の一家は、混乱の中で近所の顔見知りのおばあさんに出会った。その人は白装束に身を固め、白足袋に草履、それに杖を持っていた。
 多くの女の人はもんぺと防空頭巾、男の人は国民服に鉄カブト(ヘルメット)という姿であったが、それは、その頃毎晩のように行われる空襲に備えていつでも逃げ出せるように、枕元に用意してあった服装である。
 しかし、この老婦人が枕元に用意していたのは、これらの防空と避難のための服装ではなく、「死装束」だったのだ。
 声を掛けると「これから死出の旅路です」ともの静かに言って、人混みと猛火の中に消えて行った。

 家の裏に変電所と空き地があり、そこに大きな防空壕が掘ってあった。母たち5人はまずそこへ逃げ込もうとしたが、中はすでに人がいっぱいで、入ることができない。やむなく、その場を離れた。
 母が後に人から聞いたところでは、そこに入った人は全員が蒸し焼きになって死亡したそうである。
 
 母たちは、お互いに離れないようにしながら、逃げて逃げて、運河に飛び込んだ。
 その運河の名を母は小名木川だと記憶している。途中で離ればなれになることもなく、5人は何とか水の中に入り、陸上の火災からはのがれることができた。
 祖母は、看護師という戦前の職業婦人であり気も強かったというが、そのおかげもあったことだろう。

 けれども、上からはものすごい火の粉が降り注いでくる。どうしたものかと思っていると、蒲団が1枚流れてきた。これをつかまえて、この下に全員が入った。
 だが、蒲団をかぶっていても、猛火の熱が伝わってきて大変な熱さになり息苦しくなるため、時々、蒲団を上げて、しかし、上げるとおびただしい火の粉が降り注ぐので、またかぶり、を繰り返していた。
 すると、見知らぬ年配の婦人が「入れてください」と近づいてきた。祖母がどうぞどうぞと言い、その婦人も一緒に蒲団をかぶった。
 朝まで、川の中で蒲団を上げたりかぶったりして、ようやく空襲が終わり燃える物がすべてなくなって鎮火した。
 蒲団を上げてみると、その婦人は亡くなっていた。

 祖母と母、弟4人は、焼け出されて、すぐに福島へ向かうことに決めた。しかし、祖父といつどこで会えるか分からない。祖父が戻って来ても、家はもちろん、周囲もすべて焼けたような状況では、家のあった位置もはっきり分からないし、留まることもできない。連絡手段もなく、止むを得ず5人は上野から列車に乗った。
 そして、避難民や疎開者でごったがえす列車の中で、まったく偶然に皆は祖父と会ったのである。
 空襲の報を聞き、慌てて東京へ戻って来た祖父が、再び福島方面へ向かう列車に乗って探そうとしていたのだった。

 こうして母の一家は、財産はすべて失ったものの、家族はみんな死ぬことなく生き延びて、戦後を迎えることができた。しかし、これは極めて幸運なことであったともいえるだろう。
 なぜならこの空襲では、たった一晩、わずか2時間あまりの空襲によって、何の罪もない民間人が10万人も亡くなっているからである。

 総武線亀戸駅に近いガード下のコンクリートに、戦後しばらくたってからも、積み重なって焼死したたくさんの人の“脂”がしみ込んで黒くなっていたのを、母は憶えている。

 私は、まぎれもないこの無差別爆撃、大虐殺に、大きな憤りを感じる。
 この東京大空襲は、どこか遠い外国のできごとでもなく、昔の戦国時代のできことでももちろんなく、私は生まれる19年前のできごとであり、この猛火の中を逃げ惑ったのは、私の母なのである。

自殺予防の方法はあるか

 どうしたら自殺を防ぐことができるだろうか、といつも考えています。
 ある時、私の知人に、その方法を尋ねたら、こう答えました。
 柔道の技を使って、関節を外したり、場合によってはけがをさせたりして、体が動かないようにする、と。
 これは冗談ではありません。彼は柔道の心得がある整体師です。乱暴なようですが、自殺を防ぐ方法を考えたとき、本質のある一面をついていると思いました。
 絶対に自殺をさせたくないから、理屈はどうあれ、とにかく物理的に自殺をすることが不可能な状態にして、いくら本人が自殺を望んでもできないようにする。
 舌を噛んだらどうか、と聞くと、舌を噛めば死ねるというのは迷信だそうで、そんなことでは死ぬことは無理だとのことでした。
 自殺を防ぐということは、これくらい難しいことなのだと思います。
 人によって、自殺をする動機はさまざまですし、自殺をしようとする人の持っている性格、資質もさまざまです。だから一概には言えませんが、それでも、私の考えていることを少し述べたいと思います。
 ただし、ここで述べることは、社会的なことではありません。社会福祉、医療、教育、地域社会などでの公的なシステムとしていかに自殺を予防するか、という問題はここでは措きます。もっと直接的な、個人的な、自殺予防への考え方、あるいは自殺願望を持つ人の気持ちについて論じたいと思います。

 まず、私がいつも気になるのが、「自殺をしようとする人は命を大事にしていない」という理屈で相手をいさめる考え方です。
 「自ら命を落とそうとしている人は、自分の命を大切にしていない」と考えるのは、非常に短絡的です。「自殺を考えるくらいなら、生きることを考えなさい」などという言葉も、多くの自殺志願者のことを理解していません。
 性格の問題として(良いか悪いかではなく)、普段からあまり深刻に物事を考えない人や、人生のことを思い悩まない人、細かいことを気にしない人、他人に対して気遣いの少ない人などは、どちらかというと、自殺願望からは遠い。
 一方で、いろいろな物事をまじめすぎるくらいにいつでも深刻あるいは真剣に考え、人間関係や人生に悩みの多い人は、場合によって自殺願望を持つ可能性があります。
 これはつまり、生きることに真剣であるあまり、苦しみが多く、ついには自殺を考える可能性も出てきてしまうということです。
 そしてある程度の強さを持っている人こそが、人生の困難にもぶつかって行くので、苦しみも受けるわけです。弱さのあまり、自分の人生と真剣に向き合うことが困難な人(これも良し悪しではありません)は、かえって苦しみから遠ざかることができるのではないかと思います。
 もっといえば、自殺を考える人こそが、人生を重く考え、日々命を大切にしているのです。
 生きたい、生きていたい、しかしそれができないくらいに苦しい、だから死ぬことさえも考えてしまうのです。
 もちろん、「自殺をしようとする人は命を大事にしていない」といういさめによって、思いとどまる人もいることでしょう。しかし、やはり私は、こうした考えは、自殺願望を持つ人を理解しにくくすると考えます。
 むしろ、自殺志願者にさらに負担を強いることにもなりかねません。これについては後で述べます。
 
 「自殺したら、周囲の人はどんなにか悲しく、苦しい思いをするか」と言って思いとどまらせようとすることにも、私は限界を感じます。
 これまた、そう言うことによって、思いとどまる人もいるでしょうが、自殺をしようと考えるくらいに苦しい時には、本人はそうしたことを考える余裕は、残念ながらまったくないものです。
 これも、自殺志願者をさらに苦しめることになる可能性があると考えます。これについても後で述べます。
 しかし、実際に、近しい人が自殺してしまったことで、周囲の人がその責めを負うような心境になってしまって苦しんでいることは、時々報道されます。このことは、みんなが忘れてはならないことだとは思います。

 別のある知人に、こんなことを尋ねたこともあります。もし、金銭的な苦しみで自殺を考えている人がいたとして、その人にお金を与えたら、自殺を防ぐことができるのではないか、と。
 彼は、それを否定し、もしお金の問題が解決したとしても、別の問題を抱えるようになって自殺願望を持つだろう、と言います。
 これは、そうでない部分と当たっている部分があると思います。
 そうでない部分というのは、やっぱり切実な金銭的な悩みなら、仮定の話しですが、そのお金の問題が解決したら自殺を防ぐことができる。健康上の問題で悩んでいたら、それが解決した時点で、自殺からは遠くなる。そう思います。
 もちろん、金銭的なことでも健康上の問題でも、そう簡単に解決はしません。ただ、直接的な解決策によって、自殺を防ぐ、そういうこともあり得るとは思います。
 当たっている部分というのは、何がどうなっても、その人は自殺願望を捨てることがないだろう、という考えで、そういう人もおそらく実際にいるとは思います。
 けれども、こういうタイプの人の心の底をのぞくのは、何か非常に危ういものを感じるので、ここでは書くことも、考察することも避けて、触れないことにします。

 さて、「自分の命を大切に」といういさめにしても、「周囲の苦しみを考えて」という説得にしても、これは自殺をしようとしている人に、さらに「何かを求めている」ことになるのではないでしょうか。
 前者は、生きたいと強く望み、それがもうできないくらいに疲れ切って、自分の命を支えることもできない人に、「支えること」を迫っている。後者は、苦しみすぎて人のことはもちろん、自分のことを顧みる余裕のまったくない人に、「人のことを考えるように」と迫っている。
 一つのたとえです。今まさに、餓死寸前の人がいたとして、その人はもう一歩も動けない。一杯の粥をその人にまず飲ませなければならない。そういう状況なら、その人のところまでその粥の入った椀を持って行って、飲ませてあげるものです。「ここに粥があるから、ここまで歩いて来なさい」という人はいない。
 ただし、そういう餓死寸前の人が、自分から見えないところにいる場合には、こちらから粥を持って行って上げることはできないから、助けるのは難しくなる。餓死寸前よりもう少し手前くらいだったら、その人は、自分で人に助けを求めなければ、助からない。
 この問題もとても重要なことですが、ここでは措きます。

 自殺をしようとしている人は、苦しみに苦しんで、人に気を遣うだけ遣って、もう生きるための精神的なエネルギーはゼロです。
 そんな人に、さらに反省することを求めたり、周囲に気を遣うことを求めるのは、餓死寸前の人にさらに歩かせるのに等しいことだと、私は考えます。やはり、粥の椀を持ってその人の近くまで行って、抱き起こして、粥をそっと口の中に入れてあげなければ、助けることはできません。飢えていて、歩くことさえもできない状態であることを理解していれば、寄り添ったそういう行為ができることでしょう。
 これと同じことで、死にたいと思うほどの苦しみの中にいることを理解し、相手に寄り添って、共感することが、自殺を予防するためには大きな要素になる、と私は思います。
 しかしそれは、助ける人にとっても、大変な苦労です。しかも、なかなか相手の心の中の状況は把握できない。ある程度以上は、医療関係者や心理・精神関係の専門家に任せる必要があります。
 それでも、自分から死のうと思っている人に対してその苦しさにできる限り共感することが、自殺を防ぐ大きな第一歩である、と私は思っています。
 皆さんは、どうお考えになりますか。

『父と暮らせば』で嗚咽するだけじゃだめだ 120806

『父と暮らせば』で嗚咽するだけじゃだめだ
120806

 初めて観た芝居は、劇団こまつ座の『父と暮らせば』(1994年9月新宿・紀伊国屋ホール、すまけい、梅沢昌代主演)だった。
 その10年後に、映画化された『父と暮らせば』(2004年、黒木和雄監督、宮沢りえ原田芳雄主演)を観た。
 この映画の方には縁があった。しばしば一緒に仕事をした写真撮影業の遠崎智宏さんがスチールを担当しているのだ。
 遠崎智宏さんは、続けて黒木監督の『紙屋悦子の青春』(2006年、原田知世永瀬正敏主演)のスチールも担当している。そして、黒木監督は『紙屋悦子の青春』が遺作となり、2006年に急逝した。
 そうした思い入れもあって、私は黒木監督の戦争レクイエム三部作とされるこれら(もう1本は『美しい夏キリシマ』(2002年))を強い気持ちを持って鑑賞した。
 『父と暮らせば』は、原爆で肉親も友達も失いながら生き延びた自分に負い目を感じている宮沢りえの、切なくもひたむきな気持ちと、幽霊になってまで娘を励ます原田芳雄の親心、そしてそれらを全身全霊で表現する2人の芝居、さらに原作も脚本も演出もすばらしかった。
 私は、観ている途中から涙が止まらなくなり、ハンカチで窒息するほどに口を押さえ、映画館で嗚咽した。
 

 しかし、戦争を扱ったこうした作品に心を揺さぶられるたびに、私は自戒を忘れていはいけない、と思う。
 情動に流されて終わっては駄目だ、理性で考え続けなければ、と。
 原爆は、アメリカという国家とその支配層が、意志を持って投下した。亡くなった日本の、何の罪もない一般市民たちは、殺されたのである。
 自然災害や、高齢による寿命で亡くなったわけではなく、人間によって殺されたのだ。だから、悲しんでいるだけではいけない。その原因を探り、悪い奴を告発し、二度と繰り返さないように考え続け、必要な行動をしなければならない。
 原爆も、戦争も、沖縄の基地の問題も、福島の原発事故の問題も、みんなどこかでつながっている。そのつながりを解き明かさなければいけない。

 
 去年、神奈川の湘南地方に越して来て、そうして今日初めて広島原爆の日を迎えた。
 地元自治体による原爆投下時間に合わせた黙祷の呼びかけがあり、8時15分にチャイムがなった。そのしばらく後、ツクツクボウシが鳴くのを今年初めて聞いた。いつもは8月15日の終戦記念日前後に鳴き始めると思っているが、今年はちょっと早いようだ。
 あの日から、67年目だという。