高校吹奏楽部の思い出

 私が入った高校は、東京の北の外れにある都立高校で、創立してからまだ新しく私は第七期生であった。
 入学式後、数日もしないうちに私は楽器の音を頼りに練習場所へ行ってみた。しかし、そこは音楽室ではなく家庭科室であった。あたたかく歓迎してもらってさっそく入部したのだが、どうも様子が変だ。
 元気の良い音が響いている割りには人数が少ない。ティンパニも大太鼓もない。女子の先輩が吹いているのはフレンチホルンではなくてメロフォンだ。それも二人が交代で吹いている。そして私に与えられたユーフォニアムは、なぜかベルが前を向いていてピストンが斜めに並んでいる奇妙なものだった。
 次の日は体育館の倉庫が練習場所に当てられた。もちろん部員全員がそこで練習するのである。
 この高校の吹奏楽部は、その時できてからまだ二年ほどだという。私が入学した時の三年生の先輩が、職員室にお百度を踏んでようやく創立したのである。いや、創立はしていなかった。合唱の活動をしている音楽部の“おまけ”として吹奏楽部門がくっついているだけなのである。音楽部ブラスバンドというのが正式な名称であった。
 したがって、音楽室を主に使えるのは合唱部門の方で、吹奏楽の方は、家庭科室や体育倉庫を、音楽室が使えない時には練習場所として与えられた。後で知ったことだが、これらの場所を確保するのも大変な苦労があったそうで、それまでは全員で楽器をかついで毎日のように荒川の土手へ行っていたという。
 人数も少ないが楽器もまったく足りていない。フルートやクラリネット、トランペットやトロンボーンの一部が個人持ちで、あとはすべて他校からの借り物であった。メロフォンは、その時にフレンチホルンすら借りられなかったことを意味していた。音楽部の所有の楽器というものがまったく無かったのである。
 私のユーフォニアムもその借り物のひとつで、ベルが前を向いているのは、その当時でもあまりにも古くて使われることのない「フロントベル」と呼ばれるタイプのものであった。今思うと形もおもしろくて音にも異常がなかったのだから、悪い楽器ではなかったが、使うのは何だか恥ずかしいような気がしていた。しかし、貸してくれる学校の都合で、時として普通のユーフォニアムが来ることもあった。といってもヤマハの3本ピストンのラッカー仕上げのものであったが、当時はそれの方がフロントベルよりもうれしかった。


 借り物は期限があって、いったん返してまた借りることを繰り返すので、私は先輩たちとしょっちゅう楽器借用の小旅行に出かけた。東京郊外の畑の中にある公立高校へ行くことが多かった。
 私のユーフォニアムや、メロフォンの他にもさまざまな楽器を借りた。テューバは、当時はマッコウクジラのような巨大なハードケースに入っていて、下にはすぐに壊れる小さなキャスターが付いており、これを押したり引いたりして畑の中の小道から私鉄電車、そして池袋の駅の地下街を、他の楽器ケースを担いだ部員たちとともに歩いた。不思議と後輩だからといって大きな楽器ばかりを運ばされることはなく、どの楽器を運ぶのかはたいていジャンケンで決まった。私はよくジャンケンに負けた。
 しかし、池袋の駅の地下街へ入ると、先輩たちがいっせいに喫煙を始めるのには閉口した。私の学校はそれほど悪い学校ではないし、先輩たちも特に非行生徒というわけではないので、これも不思議だった。私は先輩に言われて制服のブレザーの襟に付いている校章を外し、どうしても斜めに歩きたがるマッコウクジラを懸命に押しながら、小さくなって列の後ろから付いて行った。
 けれども私は、毎日の練習が楽しくて仕方がなかった。楽器が足りないことや練習場所に不自由している点では、盛んでなかった中学校の吹奏楽部(この学校では器楽部というのが正式名称だった)の頃よりもひどいものだったが、数少ない同期の一年生の中にも熱心な者がいたし、何よりも先輩たちが一所懸命に練習している。人数の割には元気な音が響いているのはそのせいだったのだろう。
 創部のために奔走したK先輩は、吹奏楽で有名な中学校でトロンボーンをやっていた人で、たった一人しかいない新入部員でもあるユーフォニアムの私を熱心に指導してくれた。


 春も終わりに近づいた頃、K先輩から、コンクールに向けての練習を始めることを告げられた。一九八〇年度のコンクールである。
 その時の高校のコンクールの出場枠は、編成人数によってA、B、Cと三つに分かれていた。Aは五十人、Bは三十五人、Cは二十人であったと思う。
 私たちの高校は、C編成への出場に最初から決まっていた。部員の人数はかろうじて二十人以上はいたが、三十五人にははるかに届かない。
 私は部内のたった一人のユーフォニアムなので、一年生とはいえ二十人から外れることはないだろう、と密かに思っていたが、K先輩は「お前が上達しなかったら、俺がトロンボーンと持ち替えでユーフォニアムを吹いて出るからな」という。
 当時は、第何次かの吹奏楽ブームの前だったからC編成でしか出られない高校もたくさんあり、金賞、銀賞、銅賞の各賞も枠が決まっていた。したがって私は、自分が本番に乗ることができるかどうかと、乗ったとしたら金賞がとれるかどうかの二つの意味で頑張らなければならなくなった。
 課題曲は行進曲の「オーバー・ザ・ギャラクシー」、自由曲はK.Lキング作曲の「インドの女王」と決まった。
 この「インドの女王」という曲は、現在はほとんど演奏されることもなく、知っている人も少ないようだが、その昔(この思い出話が三十年以上前で、それよりもさらに昔である)、吹奏楽の世界で流行した曲だそうで、先輩らが「審査員の年齢層から考えればこの曲は受けが良いはずだ」との思惑もあって選曲されたと、あとで聞いた。私にはこの曲は、個人的なノスタルジーがあるにしても名曲だと今でも思っている。


 練習は、夏休みになるとすぐに佳境に入り、文字通り朝から晩まで吹き続けた。
 しかし、そんな中でやはりたった一人のテューバである二年生のD先輩だけは、さっぱり個人練習をしている様子がない。すぐに姿をくらましてしまう。どこかへ麻雀をやりに行っているという噂であった。
 それが、合奏の時になると、いつの間にか現れる。そして指揮の先生に名指しされて一人で吹かされると、これが不思議なことに完璧なのである。一度耳で聴いただけのピッコロの部分をすぐに“耳コピー”して吹いたり、さらにそれをいくらでも移調したりもしていた。音楽的には非常に才能があったのだろう。
 夜は公園で練習する。私はまじめにやっているのだが、このD先輩がロケット花火を飛ばして遊んでいる。他の先輩もタバコを吸いながら笑って見ている。そのうちロケット花火の標的が私になってきて、おかげで一発、ユーフォニアムのベルに命中してしまった。先輩たちはタバコの煙にむせながら大笑いをしていた。
 それでも、幹部の先輩たちは普段はあちこちのパートを飛び回って、大汗をかいて指導していたし、皆も必死になって付いていった。
 ところが、楽器不足は相変わらずで、何とかかき集めたものの、ティンパニだけはとうとう借りることができなかった。
 ティンパニ担当のB先輩は、毎日、四つの机に向かって練習していた。つまり一つの机を一台のティンパニに見立てて、それぞれの机にチョークで音を表わすアルファベットを書いて、マレットでデコデコと叩くのである。
 本番まで借りる当てはない。本番の時だけ、会場の楽器(あるいは前に出演した学校のものだったか)を借りることができる。つまり文字通りのぶっつけ本番ということである。しかしこのB先輩は愚痴ひとつ言わずに、毎日朝から晩までひたすらデコデコと机を叩き続けていた。
 指導に忙しいK先輩だが、合奏では見事な演奏をしていた。歌う部分では柔らかい音でビブラートを効かせるが、フォルティッシモでは、びっくりするほど大きな音が出た。これならトロンボーンが二人でも迫力の演奏になる。トランペットの同級生A君は、あまりイヤらしい歌い方は好まないらしく、素直な透明感のある音で、特に高音が美しかった。その他にも、フルートやクラリネットにうまい先輩や同級生が何人かいた。私は自分の下手さを嘆いても始まらないので、とにかく一人で練習を続けた。
 二十人編成というと、フルート二、クラリネット三、アルトサックス一、テナーサックス一、ホルン三、トランペット三、トロンボ−ン二、ユーフォニアム一、テューバ各一、パーカッション三といったところだったと思う。私は、どうにかそのユーフォニアムパートの一人枠に入ることができた。
 本番はどうであったかあまり記憶にない。ただ、ティンパニが思う存分に叩きまくっていた憶えがある。
 結果は、金賞であった。
 私は、あの夏のことを思い出すだびに、私たちがそれでも金賞を取ることができた理由を考えようとする。しかし思い浮かぶのは、K先輩の叱咤激励と、背を丸めて譜面に向き合う私自身の後ろ姿と、机ティンパニのデコデコ音だけである。
 今、私の手元には、すさまじい書き込みで判読困難な「インドの女王」の譜面が残っている。あのフロントベルのユーフォニアムは、今どこにあるか私は知らない。