私の戦争1964「3月10日ー母が体験した東京大空襲」

 私の母が子ども時代を過ごしたのは、現在の墨田区向島付近、戦前の向島区寺島町界隈であった。
 大正時代、おそらく関東大震災後の復興を期に、会津から出て来た私の祖父と、同じく会津から出て来た祖母との間に生まれた。
 祖父は電気の専門学校、祖母は看護学校を卒業しており、震災後から昭和初期にかけて大いに活躍の場があったことだろうと思う。
 実際、祖父は当時のその界隈では珍しく背広を着て丸の内まで通勤していたそうで、母が長女、その下に男の子4人の子どもたちは、それほどの不自由もなく暮らしていたようである。
 休日には着飾って、浅草へ遊びに行ったとも聞いた。ターザンの映画を観て、松屋デパートの食堂で食事をするのが大きな楽しみであったそうだ。

 そうした生活は、太平洋戦争末期の1945年3月10日未明、東京大空襲ですべて失われた。
 これは、母から繰り返し聞いた話しである。

 母は12歳で、一番下の弟を祖母が背負い、下から2番目の弟の手を母が引き、長男と次男と5人で逃げ惑った。祖父は出張で福島に行っており、留守であった。
 夜半の空襲警報に続いて、ヒューッ、ヒューッという音とともに、ものすごい数の焼夷弾が降ってきた。母は今でも打ち上げ花火のヒューッという音を聞くと、空襲を思い出して、怖くなるという。

 家を出ると、あたりはどんどん火に包まれ、火の粉が舞っていた。路地には逃げようとする人がいっぱいだった。
 その時、母の一家は、混乱の中で近所の顔見知りのおばあさんに出会った。その人は白装束に身を固め、白足袋に草履、それに杖を持っていた。
 多くの女の人はもんぺと防空頭巾、男の人は国民服に鉄カブト(ヘルメット)という姿であったが、それは、その頃毎晩のように行われる空襲に備えていつでも逃げ出せるように、枕元に用意してあった服装である。
 しかし、この老婦人が枕元に用意していたのは、これらの防空と非難のための服装ではなく、「死装束」だったのだ。
 声を掛けると「これから死出の旅路です」ともの静かに言って、人混みと猛火の中に消えて行った。

 家の裏に変電所と空き地があり、そこに大きな防空壕が掘ってあった。母たち5人はまずそこへ逃げ込もうとしたが、中はすでに人がいっぱいで、入ることができない。やむなく、その場を離れた。
 母が後に人から聞いたところでは、そこに入った人は全員が蒸し焼きになって死亡したそうである。
 
 母たちは、お互いに離れないようにしながら、逃げて逃げて、運河に飛び込んだ。
 その運河の名を母は小名木川だと記憶している。途中で離ればなれになることもなく、5人は何とか水の中に入り、陸上の火災からはのがれることができた。
 祖母は、看護師という戦前の職業婦人であり気も強かったというが、そのおかげもあったことだろう。

 けれども、上からはものすごい火の粉が降り注いでくる。どうしたものかと思っていると、蒲団が1枚流れてきた。これをつかまえて、この下に全員が入った。
 だが、蒲団をかぶっていても、猛火の熱が伝わってきて大変な熱さになり息苦しくなるため、時々、蒲団を上げて、しかし、上げるとおびただしい火の粉が降り注ぐので、またかぶり、を繰り返していた。
 すると、見知らぬ年配の婦人が「入れてください」と近づいてきた。祖母がどうぞどうぞと言い、その婦人も一緒に蒲団をかぶった。
 朝まで、川の中で蒲団を上げたりかぶったりして、ようやく空襲が終わり燃える物がすべてなくなって鎮火した。
 蒲団を上げてみると、その婦人は亡くなっていた。

 祖母と母、弟4人は、焼け出されて、すぐに福島へ向かうことに決めた。しかし、祖父といつどこで会えるか分からない。祖父が戻って来ても、家はもちろん、周囲もすべて焼けたような状況では、家のあった位置もはっきり分からないし、留まることもできない。連絡手段もなく、止むを得ず5人は上野から列車に乗った。
 そして、避難民や疎開者でごったがえす列車の中で、まったく偶然に皆は祖父と会ったのである。
 空襲の報を聞き、慌てて東京へ戻って来た祖父が、再び福島方面へ向かう列車に乗って探そうとしていたのだった。

 こうして母の一家は、財産はすべて失ったものの、家族はみんな死ぬことなく生き延びて、戦後を迎えることができた。しかし、これは極めて幸運なことであったともいえるだろう。
 なぜならこの空襲では、たった一晩、わずか2時間あまりの空襲によって、何の罪もない民間人が10万人も亡くなっているからである。

 総武線亀戸駅に近いガード下のコンクリートに、戦後しばらくたってからも、積み重なって焼死したたくさんの人の“脂”がしみ込んで黒くなっていたのを、母は憶えている。

 私は、まぎれもないこの無差別爆撃、大虐殺に、大きな憤りを感じる。
 この東京大空襲は、どこか遠い外国のできごとでもなく、昔の戦国時代のできことでももちろんなく、私は生まれる19年前のできごとであり、この猛火の中を逃げ惑ったのは、私の母なのである。
 

脳と心 〜発達障害者の物語 序の7 発達障害と反対の発達障害〜

 発達障害の特徴的な症状として、コミュニケーション能力の問題がよく話題になる。人の気持ちが分からない、その場の空気を察知することができない、自分が人からどう見られているかを考えられない、などなど、学校、職場、趣味の集まりの場などでも、このあたりのことがうまくできないと周囲から浮いてしまうし、集団の一員として自分の能力を発揮できないことになってしまう。
 さて、私自身のことを考えてみると、このあたりのことは、かなりうまくできる方だと思う。人と一緒にいると、その表情や言葉の調子から、その人がどんな気持ちで何を考えているのか、それが口から出す言葉とは裏腹であっても、かなり正確に分かる方だと思う。
 その場の空気もよく読める。苦労しなくてもすぐに空気が分かるし、変化にも敏感だ。むしろ、空気が読めて、それが気になって気になって仕方がないのだ。
 常に、自分の言動が他者からどう見られているのかを気にしている。どう見られているかを正確に把握しているというよりも、どう見られているかがこれも気になって仕方がないのである。
 たとえば、幻覚や妄想を生じる精神疾患では、そうした症状を生じなければその病気ではない。あるかないかでいえば「ある」に関しては程度問題であるが、「ない」ことに関しては程度は存在しない。
 しかし、人の気持ちが分からない、という症状には程度がある。人の気持ちが本当に全然分からない人がいたり、人の気持ちを察するのが苦手な人がいたりするが、反対に、人の気持ちが分かり過ぎるくらい分かる、というのはどうなのだろう。極端に分からない人からグラデーションあるいは前に書いたようにスペクトラムとなっていて、「真ん中くらいの人」、それを越えてものすごく分かる人というのも、これも一種の病的な状態なのではないか、とある時から考えている。発達障害と反対の発達障害である。
 私自身が何かそういう病的な状態なのではないかとも思うのである。それに、街を歩いていても、電車に乗っていても、本を読んでいても、原稿を書いていても、発達障害のことが気になって仕方がない。これもちょっと変なのではないか、と思ったりする。
 自身でいうと、ちょっと能力として問題の部分もある。まず、方向音痴であるが、これははっきり病的である。生活にも大いに支障をきたしている。笑いごとではない。道に迷うとかたどり着けないといったことだけでなく、いつも見慣れている空間も、見る角度が変わると、もう同じ空間とは認識できなくなってしまう。
 名前の記憶が苦手で、10年間毎週のように会って話しをしている人でも、名前を憶えられなかったり、自信がなかったりする。名前という記号が、それの持つ本質的な意味と結びつかないようなのだ。
 ITというものが異常に苦手で、考えるだけでも憂鬱になるし、パニックを起こすこともある。まあ、これは神経症的なものかも知れない。
 発達障害というものは何なのか、発達障害者はどんな生き方をしてきたのか、これからどう生きるのがいいのか。
 専門的な解析、とりわけ脳神経科学の分野はもちろん専門家に任せるとして、私としては、一人の人間観察者として、これからも考え続けていきたい。
 いずれにしても、あらためてきちんとつながった評論として完成させたいと思っている。
(終わり)

脳と心 〜発達障害者の物語 序の6 自分の親が発達障害だったら〜

 太宰治の『人間失格』の「第一の手記」に、主人公が子どもの頃のことが書いてある。父親が出張で買ってくる子どもへの土産について、主人公は本が欲しいが、父はもっと“子どもらしい”獅子舞のおもちゃを買い与えたいと考えている。主人公は獅子舞のおもちゃはちっとも欲しくないだが、父の怒りを恐れて、獅子舞のおもちゃが欲しい振りをする。
 これに限らず、この作品中のエピソードはどれも気持ちの悪いもので、太宰はそれをことさら嫌らしく書いている。それはそれでおもしろくもあるのだが、私がかつてこの小説を読んだ時、自分と自分の父に関しても似た部分があると感じて、いやむしろ、欲しい物と買い与えてくれる物との関係で似ている部分があって印象に残っている。
 私の父は『人間失格』の父親のように、威圧的ではないが、私の場合でも『人間失格』の場合でも、いわゆるエディプス・コンプレックスの部分はあって、つまり母親への思慕の反面、父親への反発があるわけだが、発達障害について考えるようになって、まったく異なった考えが出てきた。
 私は、中学生の頃、熱帯魚飼育と鉄道模型の趣味に凝った。少ない小遣いの中で、次はどの魚を買おうか、どの車両を買おうか、悩み考え続ける。何回も近所の熱帯魚屋と模型屋に通って、現物を見て、あるいは雑誌などで情報を集め、家で水槽や手持ちの車両を見て、とにかく考えに考えるのである。
 一つの水槽にいくつかの種類の熱帯魚を入れるには、組み合わせ方があり、それが誤っていると魚が攻撃されることがある。鉄道模型の車両であれば、私は貨車が好きなので、貨車や貨車を牽引する機関車が欲しいと思っている。
 ところがある日突然、父が、私が考えてもいなかった熱帯魚を購入してきた。緻密に積み上げてきた購入の計画はすべて水泡に帰した。組み合わせはともかく、他の魚との色彩や生態のバランス、水槽内をアマゾン風にしようか東南アジアの沼沢地風にしようかなどのイメージもすべて吹っ飛んだ。
 小遣いではなかなか換えない高価な電気機関車も、やはり突然買って来た。それはブルートレインを牽引する機関車であるから、自分の好みや計画とはまったく無関係であった。その機関車に引っ張らせる客車を全部揃えることは小遣いでは難しく、貨車を引くことはない機関車なので、その機関車1輛があってもどうにもならない。
 もちろん、父は私が大喜びすると思って買ってくるのだろうと思った。そういう物を買ってきてくれるのだから、感謝しなければいけない。そんなことをしてくれさえもしない、あるいはできない父親だっているのだから、と思う人もいるかも知れない。
 であるから、私は、買ってきてくれた物に喜べない自分にひどい罪悪感を憶えて、どれほど苦しんだことだろう。これらの品物だけではない。そういう物がほかにもあり、私はどうしてもそれらが好きになれず、従ってあまり大事にせず、そういう自分が罪深いと感じてしまうのである。食事に行っての注文などもそういうことがよくあった。
 私は、どうして父がこちらの意向を何も聞いてくれないのか悩んだ。どうせ買ってくれるのなら「今度、誕生日に機関車でも買ってやる、何がいいか」と聞かれたら、私はそれまでとは違った熟考でもって「DD13というディーゼル機関車があるので、それを是非」と言い、それが手に入ったら、まったく欣喜雀躍したことであろう。
 父が、私の喜びを倍加させるために、不意打ちをしたのだとも思った。しかし、特に趣味の部分に関しては、決して「何でもいい」ということはない。ほんのわずかな違いでも、本人にとっては恐ろしく重要なことなのだ。
 父は、自分の支配下に私を置きたいのだとも思った。まさにエディプス・コンプレックスである。『人間失格』のエピソードと似ている。子ども時代の主人公が本が欲しいと思うと父親は不機嫌になり、獅子舞が欲しいと分かると(主人公が凝った芝居でだましているのだが)、上機嫌になる。
 私の父も、父が買ってきたものを、私が無条件に喜ぶことを(意識的にせよ無意識的にせよ)望んでいるのでないかと思った。
 そういうことを、十代の半ばから四十代の半ばまで、三十年間考え続けてきて、私は思い当たったのである。
 これはそんなことではまったくなく、父には発達障害があり、そのため、熱帯魚や機関車の購入は、まったくの衝動行動なのではないか、あるいは、相手(私)の気持ちや立場を察するのが苦手だからなのではないか。『人間失格』とはまったく別のものではないか。
 そう思うと、そうした一連の行動だけでなく、いろいろと思い当たることがあった。
 その場で言ってはいけないような言葉を平気で発する、大事なことを話しいても興味がないと目の前で大あくびをする、などのコミュニケーションの問題。
 いつも貧乏揺すりをしたり指先でテーブルを叩いている、家族で出かけるといつも一人で先に歩いて行ってしまう、しょっちゅう足を家具にぶつける、といった多動や注意欠如。
 大事なことを勝手に決めてしまったり、急におかしな物を買ってくる、などの衝動行動。
 そのほかにも、すぐに激高するなど、感情のコントロールが苦手な部分もあった。
 もし、私の父が発達障害者であるならば、父の言動は悪意でもなければ、私への支配欲でもなかったことになる。それはまったく、紋切り型の表現で言うならば、まさに目からうろこが落ちるような思いであった。
(続く)

脳と心 〜発達障害者の物語 序の5 高齢者の発達障害はどうなっているのか〜

 発達障害というものが話題になった最初の頃は、ほとんど専ら「子どもの発達障害」についてだったように思う。
 自閉症は、もっと以前から知られていたが、子どものさまざまな“問題行動”が、家庭環境や教育の問題ではなく、脳の機能の問題が原因であることが唱えられ、研究も進んだ。そして、注意欠陥・多動性障害やアスペルガー症候群それに学習障害がよく言われるようになった。
 やがて、発達障害が子どもだけの問題ではなく、大人の問題としても話題になり始めた。十代後半以降、家庭での“問題行動”に家族が悩み、やがて職場での“問題行動”に本人も周囲も悩みを深める。
 そうした行動の原因が悪意や怠惰ではなく、先天的あるいは出生直後の何らかの脳の損傷によることが分かり、その実態や対策が講じられる動きが出て、報道などでも取り上げられる機会が多くなった。
 私が、発達障害に強い関心を抱くようになったのもこの頃で、今から5、6年くらい前だろう。
 ところが、ふと高齢者の発達障害については、言及がないことに気づいた。高齢者の自閉症については多少あるようだが、日常生活の中で問題となる注意欠陥・多動性障害やアスペルガー症候群が、高齢者においてはどうなのか、目にすることがない。
 発達障害が、環境によるものではなく、出生時からのものであるとすれば、高齢の発達障害者は、幼少期から少年・青年期、壮年期から高齢期になるまで、ずっと発達障害を抱えて生きてきたことになる。
 その人の人生からすれば、ごく最近に至るまで発達障害などという概念や“病名”は社会に存在しなかったから、もしかすると随分と苦労をしてきたのではないだろうかと、勝手ながら想像してしまう。
 自分としてはまじめに一生懸命に努力してきたのに、ずっと誤解をされてきたとしたら、その人は、世の中や世の中の人々をどう捉えるのだろう。
 発達障害ゆえに、特殊な能力を発揮して、学者や芸術家、技術者など高度な専門性を必要とする仕事に就き、周囲に何と思われようが気にせずに、社会の中で役割を果たしてきた人もいることだろう。
 よく「発達障害を持つ人には、天才と呼ばれる人が多い」などという。そういう面も確かにあるだろうが、そうでない人もいる。前回述べたように、その症状の出方には「連なり」もあるのだ。
 だから、ごく普通の職業に就いて、ごく普通に結婚して、子どもを育てたけれど、何かどこか、これまでぎくしゃくしてきた人間関係の原因が発達障害だったとしたら、と思ってしまうのである。
 高齢であれば、これまで多くの人が関わってきたはずだし、家族はその人と長年にわたって接してきているわけだ。
 高齢の自分の親が、どうも発達障害なのではないかと思ったとき、一体家族はそれをどう捉えたらいいのだろう。
(続く)

脳と心 〜発達障害者の物語 序の4 分類がよく分からない〜

 今年(2014年)の5月28日に、日本精神神経学会が「DSM-5病名・用語ガイドライン」を発表し、新聞等でも報道があった。
 いわゆる発達障害とされるいくつかの精神疾患の名称を、アメリカの新しい診断基準である「DSM-5」に沿って、これまでのものから変更したというものであった。
 例えば「注意欠陥・多動性障害(ADHD=Attention Dificit Hyperactivity Disorder)」は「注意欠如・多動症」になった。これは「障害」という訳語について、いくつかの問題点があるためだとしている。「欠陥」も「欠如」に変わっているから、いずれにしても、言葉の持つ問題について考慮したものだろう。
 
 しかし、分類については、私にはどうも理解がしにくい。これまで、一般向けの本から得た知識では、大雑把に以下のような理解であった。

 まず、私の関心が高い部分では、大きな分類として3つある。
注意欠陥・多動性障害(ADHD
学習障害(LD=Learning Disorder)
広汎性発達障害(Pervasive Development Disorder=PDD)
 そして、広汎性発達障害に含まれるものとして
 自閉症(Autism)
 高機能自閉症(High Function Pervasive Development Disorder=HFPDD)
 自閉症スペクトラム障害(Autism Spectrum Disorder=ASD
 アスペルガー症候群(Asperger Syndrome=AS)
 がある。

 それが、今回の変更があり、私の理解は以下のようなものになった。

 注意欠如・多動症(名称は変更)と学習障害は、分類上はそのまま。
 広汎性発達障害という名称は消えて、自閉症スペクトラム障害に名称が変わり、そこに含まれるものとして、これまでのアスペルガー症候群などの下位の分類は、「異なる重症度や症状の特性を持った1つのスペクトラム障害」というものに一括されることとなった。

 やはりどうも分かりにくい。
 ところで、注意欠如・多動症とされる“症状”あるいは特徴の中には、アスペルガー症候群の“症状”あるいは特徴と重なる部分があるようだ。
 注意欠陥・多動性障害では、多動や衝動性、不注意な行動が見られるが、同時に対人関係や社会性の問題も持っていることが多い。対人関係や社会性の問題は(旧)アスペルガー症候群に強く見られるし、何か一つのものへの強いこだわりは、注意欠陥・多動性障害にも(旧)アスペルガー症候群にも見られることが多いようだ。
 人によってその“症状”あるいは特徴は、さまざまな重なり方があるので、そうした症状の間に連なり(スペクトラム)があることが推測できる。
 意地の悪い言い方をすれば、連なりがあるということは、そもそも分類ができないということでもあろうか。
 そして、この連なりというものは、“症状”が軽いか重いかにも言えることで、どこからが「重い」のか、どこまでが「正常」なのかという、難しい問題にも“連なり”がある。
 
 さらに思うのは、脳の働きの方向性が非常に複雑であると同時に、前回も触れたように、その方向性を「文化」や「社会」にとって“有益”かどうか、という眼で見る一般的な傾向があることだ。
 発達障害とされる“症状”あるいは特徴に対して、ある種の価値を付けようとする場合には、決して「注意欠如」になってはならない。そうでなければ、そこに差別や偏見を生むことになりかねないからである。
(続く)

脳と心 〜発達障害者の物語 序の3 発達障害も文化によってだいぶ変わる?〜

 公の場では本音を隠したり、感情を押し殺したり、言葉の裏を読んだりする“大人”の行動は、一種の文化であり、日本社会では特に強いものであろう。
 欧米では自分の意志や考えをはっきりと主張をすることが多いそうだし、明瞭に言語化するようだ。中国や韓国も同様で、しかも感情はもっとあらわに表現するだろう。
 だとすれば、本音や感情を表に出さず、言葉の後ろにあるものを察することが苦手だとされる、対人関係に関する発達障害は、文化に大きく左右されるのではないだろうか。
 ある種の精神疾患は、少なくとも文明国ではその診断にあまり差異はないように思う。けれども、発達障害は、特に対人関係の部分で見ればマナーやカルチャーとの関係が深いだけに、国や地域、民族や時代によってその見方が変わってくるだろうと思う。
 言うまでもなく、障害や病気は、社会生活をする上でそれらがどの程度その支障になるかということが、判断基準にはなる。
 例えば、周囲が自分をどう見るかを気にすることなく、服装に無頓着だったとしても、それで生活に問題がなければ障害とは言えない。
 ただ、発達障害は、人によって異なるさまざまな症状、状態や言動が複合的に見られることが多く、しかも、グラデーションのように人によって程度が異なるので、どこからが問題となるのかの判断は非常に難しいだろう。
 それにしても“発達障害タイプ”として、ある人が「相手の心の内を察するのが苦手」とか「言葉の裏を読むのが難しい」としても、文化が異なれば、それは「はっきりと言葉にしないのなら、分からなくて当然だ。意志や気持ちを明確に相手に伝えない方に問題があるのだ」ということになるかも知れない。
 ただ、ユーモアやジョークとの関係になると、それはまた複雑にはなる。言葉どおりに受け取ってしまうということが、発達障害ではよくいわれる。ジョークや皮肉をそのまま言葉通りに捉えてしまうと、ジョークや皮肉の性質は文化によって異なるとはいえ、極端であれば、やはり社会生活に支障をきたすことはあるだろう。
 障害あるいは病気とされるものが、文化によって異なるかもしれないことの意味を考察することも、発達障害を知る上では大事なことだと思う。
 一方で、発達障害とされるものの中でも、学習障害自閉症とされるものは、文化の問題とは異なるように思える。脳の機能の問題としても、種類が違うように思われる。
 発達障害とされるものの分類のややこしさも、発達障害がどういうものなのか、分かりにくくなっている原因であろう。
(続く)

脳と心 〜発達障害者の物語 序の2 『坊ちゃん』は発達障害タイプだから魅力的なのだ〜

 さて、発達障害と自分の内面の発達史のようなものを考える中でふと思い当たったのは、さまざまな物語に登場する発達障害についてである。
 古今東西のいくつもの物語の中で、奇異な人物として描かれる中に、発達障害としての特異な言動が表れているのではないかと思った。
 大人として、社会人として生活をしていながら、どこか多くの大人と異なった言動をして、笑いを誘い、軽い侮蔑を受け、時に密かに羨望される。そんな人物像が物語の中にいろいろと見られる。
 夏目漱石の『坊ちゃん』は、子どもにも大人にも人気の高い代表作の一つだが、“そうした目”で読んでみると、冒頭部分から発達障害を思わせる人物描写が続く。
 もっとも、冒頭は坊ちゃんの子ども時代の話しではある。発達障害が、文字通り「発達に対する障害」であると考えるなら「子どもはやるけれど大人になったらやらない」言動が、発達障害の一つの現れであると思う。実際、発達障害者の言動とされるものには、そうしたものが見られる。ただ、そうとばかりも言えないのではないかという点もある。それについても後述したいと思うが、子どもの言動としても、坊ちゃんの言動はちょっと“普通”からは外れている。
 「親譲りの無鉄砲で、子供の時から損ばかりしている」。親譲りというのも、遺伝的なものを感じさせるが、その無鉄砲の内容は、弱虫だから窓から飛び降りることなどできまい、と友人にはやし立てられて実際に飛び降りたり、ナイフで自分の指を切って見ろ、とやはり友人に言われて実際に切ったりしている。
 気持ちをコントロールできずにカッとなってしまったり、相手の言葉にすぐに反応してしまうのは、発達障害の症状にもある。そうして、いろいろな場面で損をしてしまうこともある。
 また、坊ちゃんは父親には冷遇されている。父親だけでなく、ほかの家族や近所からも爪弾きにされている。発達障害を持つ人は、家族から冷たく接せられることで心の傷を負うこともある。
 坊ちゃんが教師になって四国に赴任してからは、校長の「狸」や教頭の「赤シャツ」、同僚の「野だ」、それに下宿の主人の「いか銀」といった“大人”に囲まれて、不愉快な思いばかりをする。
 一方、坊ちゃんの家に奉公をしていた下女の清は「気性がまっすぐでいい」と誉めている。教師の同僚の「山嵐」とは時間はかかったが理解しあい、赤シャツたちをやっつける同志になる。
 坊ちゃんは、周囲の人間におもしろいあだ名をつける機知を持っている。だが「大人としての苦労」を知っているであろう清からは、そうしたあだ名をつけることを手紙でたしなめられる。
 漱石の頃には、もちろん発達障害という概念はなかったろうから、現代の私は発達障害とされている行動様式を坊ちゃんの中に見出したわけだ。反対に、発達障害とされている行動様式から、人物像を紡ぎ出せば、それは奇異で「魅力的」な人物を描けるのかも知れない。
 坊ちゃんはとても魅力的な人物である。本音と建前を使い分けるのが“大人”の特徴的な行動様式であるとすれば、そうした大人の行動様式が理解しがたい、そしてそうした行動ができない坊ちゃんは、発達障害者なのかも知れない。
 だが、大人のあり方にうんざりしている読者は、坊ちゃんの行動に対して、喝采を送る。一方、坊ちゃんの行動を見て、自分はそんなことはしない、成熟した大人であることを確認して安心する部分もあるだろう。しかし、そうした自分の現在にどこか疑問を感じていれば、やはり坊ちゃんの行動がうらやましくもあるのだ。
 坊ちゃんの行動は結果的に、自らの社会的な地位を揺るがすことも、作品に描かれている。大人である読者はその結果を十分に予測もしているのである。
(続く)