脳と心 〜発達障害者の物語 序の3 発達障害も文化によってだいぶ変わる?〜

 公の場では本音を隠したり、感情を押し殺したり、言葉の裏を読んだりする“大人”の行動は、一種の文化であり、日本社会では特に強いものであろう。
 欧米では自分の意志や考えをはっきりと主張をすることが多いそうだし、明瞭に言語化するようだ。中国や韓国も同様で、しかも感情はもっとあらわに表現するだろう。
 だとすれば、本音や感情を表に出さず、言葉の後ろにあるものを察することが苦手だとされる、対人関係に関する発達障害は、文化に大きく左右されるのではないだろうか。
 ある種の精神疾患は、少なくとも文明国ではその診断にあまり差異はないように思う。けれども、発達障害は、特に対人関係の部分で見ればマナーやカルチャーとの関係が深いだけに、国や地域、民族や時代によってその見方が変わってくるだろうと思う。
 言うまでもなく、障害や病気は、社会生活をする上でそれらがどの程度その支障になるかということが、判断基準にはなる。
 例えば、周囲が自分をどう見るかを気にすることなく、服装に無頓着だったとしても、それで生活に問題がなければ障害とは言えない。
 ただ、発達障害は、人によって異なるさまざまな症状、状態や言動が複合的に見られることが多く、しかも、グラデーションのように人によって程度が異なるので、どこからが問題となるのかの判断は非常に難しいだろう。
 それにしても“発達障害タイプ”として、ある人が「相手の心の内を察するのが苦手」とか「言葉の裏を読むのが難しい」としても、文化が異なれば、それは「はっきりと言葉にしないのなら、分からなくて当然だ。意志や気持ちを明確に相手に伝えない方に問題があるのだ」ということになるかも知れない。
 ただ、ユーモアやジョークとの関係になると、それはまた複雑にはなる。言葉どおりに受け取ってしまうということが、発達障害ではよくいわれる。ジョークや皮肉をそのまま言葉通りに捉えてしまうと、ジョークや皮肉の性質は文化によって異なるとはいえ、極端であれば、やはり社会生活に支障をきたすことはあるだろう。
 障害あるいは病気とされるものが、文化によって異なるかもしれないことの意味を考察することも、発達障害を知る上では大事なことだと思う。
 一方で、発達障害とされるものの中でも、学習障害自閉症とされるものは、文化の問題とは異なるように思える。脳の機能の問題としても、種類が違うように思われる。
 発達障害とされるものの分類のややこしさも、発達障害がどういうものなのか、分かりにくくなっている原因であろう。
(続く)