脳と心 〜発達障害者の物語 序の2 『坊ちゃん』は発達障害タイプだから魅力的なのだ〜

 さて、発達障害と自分の内面の発達史のようなものを考える中でふと思い当たったのは、さまざまな物語に登場する発達障害についてである。
 古今東西のいくつもの物語の中で、奇異な人物として描かれる中に、発達障害としての特異な言動が表れているのではないかと思った。
 大人として、社会人として生活をしていながら、どこか多くの大人と異なった言動をして、笑いを誘い、軽い侮蔑を受け、時に密かに羨望される。そんな人物像が物語の中にいろいろと見られる。
 夏目漱石の『坊ちゃん』は、子どもにも大人にも人気の高い代表作の一つだが、“そうした目”で読んでみると、冒頭部分から発達障害を思わせる人物描写が続く。
 もっとも、冒頭は坊ちゃんの子ども時代の話しではある。発達障害が、文字通り「発達に対する障害」であると考えるなら「子どもはやるけれど大人になったらやらない」言動が、発達障害の一つの現れであると思う。実際、発達障害者の言動とされるものには、そうしたものが見られる。ただ、そうとばかりも言えないのではないかという点もある。それについても後述したいと思うが、子どもの言動としても、坊ちゃんの言動はちょっと“普通”からは外れている。
 「親譲りの無鉄砲で、子供の時から損ばかりしている」。親譲りというのも、遺伝的なものを感じさせるが、その無鉄砲の内容は、弱虫だから窓から飛び降りることなどできまい、と友人にはやし立てられて実際に飛び降りたり、ナイフで自分の指を切って見ろ、とやはり友人に言われて実際に切ったりしている。
 気持ちをコントロールできずにカッとなってしまったり、相手の言葉にすぐに反応してしまうのは、発達障害の症状にもある。そうして、いろいろな場面で損をしてしまうこともある。
 また、坊ちゃんは父親には冷遇されている。父親だけでなく、ほかの家族や近所からも爪弾きにされている。発達障害を持つ人は、家族から冷たく接せられることで心の傷を負うこともある。
 坊ちゃんが教師になって四国に赴任してからは、校長の「狸」や教頭の「赤シャツ」、同僚の「野だ」、それに下宿の主人の「いか銀」といった“大人”に囲まれて、不愉快な思いばかりをする。
 一方、坊ちゃんの家に奉公をしていた下女の清は「気性がまっすぐでいい」と誉めている。教師の同僚の「山嵐」とは時間はかかったが理解しあい、赤シャツたちをやっつける同志になる。
 坊ちゃんは、周囲の人間におもしろいあだ名をつける機知を持っている。だが「大人としての苦労」を知っているであろう清からは、そうしたあだ名をつけることを手紙でたしなめられる。
 漱石の頃には、もちろん発達障害という概念はなかったろうから、現代の私は発達障害とされている行動様式を坊ちゃんの中に見出したわけだ。反対に、発達障害とされている行動様式から、人物像を紡ぎ出せば、それは奇異で「魅力的」な人物を描けるのかも知れない。
 坊ちゃんはとても魅力的な人物である。本音と建前を使い分けるのが“大人”の特徴的な行動様式であるとすれば、そうした大人の行動様式が理解しがたい、そしてそうした行動ができない坊ちゃんは、発達障害者なのかも知れない。
 だが、大人のあり方にうんざりしている読者は、坊ちゃんの行動に対して、喝采を送る。一方、坊ちゃんの行動を見て、自分はそんなことはしない、成熟した大人であることを確認して安心する部分もあるだろう。しかし、そうした自分の現在にどこか疑問を感じていれば、やはり坊ちゃんの行動がうらやましくもあるのだ。
 坊ちゃんの行動は結果的に、自らの社会的な地位を揺るがすことも、作品に描かれている。大人である読者はその結果を十分に予測もしているのである。
(続く)