脳と心 〜発達障害者の物語 序の1 発達障害をもっと知りたい〜

 数年前に、発達障害という脳の働き方の“問題”があると知って、興味を引かれた。少しずつその内容を知るにつけ興味は深まり、今はすっかり取りつかれてしまった。
 発達障害とはどういうものなのか知りたい、という気持ちと同時に、なぜ私は発達障害について強く興味を持っているかについても知りたい、と思っている。
 少なくとも私から見て、誰彼の相当に理解に苦しむ言動が、ある種の脳の機能の“障害”である、ということならば、もし本当にそうならば、それは目が開かれるような思いである。
 他人が自分の言動をどう見ているかまったく気にしている様子がない、会話をしていると急に聞いていないふうになる、服装に無頓着、ものすごく音を立てて食べる、こちらの意向を一切考えず勝手に何かをする、こちらの気持ちに関心がない、かちんとくることを平気で言う、いつもそわそわと落ち着かない、などなど。
 こう思いつくままに、発達障害やそれに近い発達障害タイプとされている人の言動を並べてみると、どれも印象はよくない。けれども、私はその前の文で“問題”とか“障害”などとわざわざ「“”」をつけて、社会でこうした行動を問題視することに疑問を呈するかのような表現にしている(障害、しょう害、障碍という表記そのものの問題についてはここでは措き、厚生労働省の表記に一応従う)。
 私がとりつかれたように発達障害への興味が深まっているのは、このよくない印象と問題視への疑問のはざまで、自分として発達障害をどう捉え理解したらいいのか、気持ちが揺れ動いているからなのだと思う。
 もう一つ、発達障害というものについて、あまりにも不明確な部分が多いということも、関心を強める原因だろう。これは私の理解が不十分な点ももちろんあるが、研究が進んでいないということもあるのではないか。
 さらに、人間の言動が、脳の機能というような極めて自然科学的な部分で説明ができてしまうかも知れない、といういわば未知への不安、極論すれば人間の気持ちや行動について、文学的な説明の意義が相当に弱まってしまうのではないかという不安でもある。
 しかし、私が発達障害について理解を深めたいと思ったいちばん大きな理由は、おそらく私の実父が発達障害なのではないか、だから私が子どもの頃から時折傷つけられてきた父の言動も理解できるのではないか、そうした思いにあると考えている。
 一方で、発達障害を持つ人と私は、どうしても相容れない部分があるのではないか、という疑問があり、これはつまり私が父と内面の部分で深く触れ合うことができないのではないか、という恐怖でもある。
 これから書くそれぞれの章については、いずれさらに詳しく論考したいと思っているが、まずはその序としてこれから書き並べてみよう。
(続く)