私の戦争1964 〜いくつかの7月1日〜

 私が生まれる19年前の7月1日、すなわち1945(昭和20)年の7月1日は、どんな日だったろう。私の手許にある、戦時中の作家らの(刊行された)日記をいくつか調べてみた。

 『ある科学者の戦中日記』(富塚清/中公新書/1976年)。著者は、ジェットエンジンの権威で、当時、東京大学の教授である。早くから日本の敗戦を予言しているが、声高に反戦を叫ぶわけではなく、むしろ各界に戦後の日本の立て直しを説いて回っている、当時としては非常に独特な生き方をしていた人物で、実に痛快である。いよいよ終戦間近になると、とにかく家庭菜園での食料生産に精を出していた。
 7月1日は、前日から石原莞爾の家を訪ねて談論している。午後「石原将軍」に異例の見送りをされ、鶴岡を発って象潟に講演と座談会に向かう。「今のように独立的な見識が乏しく、支配者のいいなり放題になっているのでは、戦後教育はどうなることか」と記している。

 『東京焼儘』(内田百/中公文庫/1978年)。百は焼け出されて、小屋住まいを余儀なくされているが、生活の状況や考えをずっと詳細に記録している。
 この日は、前日からの腹具合がまだよくならない。荷物の整理もできておらず、焼けてなくなった物について妻が愚痴を言う。
 「もともと無かった物も焼いたことにしようと私が教へる。ピアノ三台、ソフア一組、電気蓄音器、合羽坂の時分から家内が欲しがったのを許さなかった電気アイロン、それから蒸篭、ミシン等、惜しいことにみんな焼いてしまった、焼けたのでなくなつた。もともと無かつたかも知れないが有つたとしても矢つ張り同じ事である」と記す。 

 『戦中派不戦日記』(山田風太郎講談社文庫/1973年)。当時は医学生であったが、学校ごと長野県の飯田に疎開している。
 「B29、攻撃目標を中小都市に移しはじめたる模様にして、少数機ずつを以て殆ど日本全土を終日乱舞しあるごとく思わる。○沖縄戦ついに終焉を告げんとす。敵の発表によれば、司令官牛島中将は腹十文字に割腹、介錯により首は前に落ちいたりと」。
 ちなみに飯田は、現在私の両親が隠居している土地である。

 『断腸亭日乗』(永井荷風岩波文庫/1987年)。大正6年から42年間の日記である。空襲で焼け出されても持ち出した日記は、戦時中はもし官憲の目に触れれば直ちに逮捕されるような、痛烈な軍国批判が記されている。しかしその批判はもちろん冷徹な文学者の目によるもので、結果的にすばらしい文芸作品であるとも思う。
 6月29日以降7月31日まで記述はない。7月31日の記述の一部「東京は五月以来火災なく平穏無事今日に至れるが如し。但し他の人の端書によれば米三分豆七分の食料には困却せりといふ」。
 そして「見聞録」として「大阪市中にて人の拾ひたるビラ」の文面が記載されている。これも痛烈な軍閥批判である。終戦が15日後であるとはいえ、当時はもちろん治安維持法の厳格な中であるから、こうしたビラが出回るというのは大きな驚きであると、私も思う。

 私の両親は、この日どこで何をしていただろう。
 父は、旧満州ハルビンにいたであろう。満州国雇員として、農業土木技術の指導をしていたはずだ。空襲もなく、食料にもそれほど不自由はなかっただろう。だが1カ月後には軍から招集され、ソ満国境に向かい、終戦を迎え、命からがら日本に帰って来た。18歳であった。
 母は、3月の東京大空襲で焼け出され、福島に疎開中であったろう。不自由で肩身の狭い毎日を過ごした12歳であっただろう。

 終戦から19年経った1964年、今から50年前の7月1日は水曜日で、私は母のお腹の中にいた(はずだ)。東京オリンピックを間近に控え、母は東京の北区の社宅で汗だくだったと思う。
 それより10年遡って、1954年7月1日、自衛隊が発足した。
 今年、2014年7月1日、憲法解釈を閣議決定によって変えて、日本は集団的自衛権の行使が可能になり、外国での戦闘行為ができる国になった。