沖縄慰霊の日を迎えて 『4日間の沖縄 最終日 沖縄の戦地に咲く花を見た』

 沖縄を去る日の朝も、大音声(だいおんじょう)放送には気づかずに目覚めた。
 布団の上に寝転んだまま、窓から入ってくるさわやかな風を顔に受け、昨晩、那覇市内の小さな台湾料理屋で酔いしれたことを思い出す。シジミのニンニク醤油漬けの強烈な香りも、記憶として立ちのぼってくる。
 今日は、沖縄の戦地を訪ねる。街(まち)、故地(こち)、基地(きち)、そして4つめの「ち」となる「戦地(せんち)」の跡に行くのだ。
 宿の食堂に降りてみると、もう一人お客さんがいた。私よりも年配の男性で、近くに知人がいるとかで、しょっちゅう南城市には来るという。
 私はその男性と一緒に、おばあの指示に従ってバナナ牛乳を作って飲んだ。バナナと一緒に牛乳を飲むとカルシウムの吸収がすぐれていることを、おばあはやはりこの男性に説明している。
 勘定を済ませた。3回の朝のうち2回分は朝食がなかったので、安くなった。
 午後まで楽器を預かってもらうことにして出発する。おばあは急に思い出したように「これは楽器ですか。お客さんは、仕事で演奏をするのですか」と尋ねてきた。
 朝食は今日も、本島に渡る橋の手前にあるパーラーで、やっぱり沖縄そばを食べた。椅子に掛けて、つるんとした喉ごしの麺を飲み込み、豚肉の角煮の端をかじって顔を上げると、今日もまたすばらしい快晴であることが分かる。
 海沿いに歩いて、梅原邸に到着し、今日の計画を考える。
 梅原邸のある南城市から最南端に向かうと、まず平和祈念公園に出会う。ここに「平和祈念資料館」「平和の礎(いしじ)」「平和祈念堂」「国立沖縄戦没者苑」がある。さらに国道を先に進むと「ひめゆり平和祈念資料館」がある。
 私が梅原君に前から伝えていたのは、戦争などの悲惨な状況をつぶさに知ると、精神的に耐えられなくなる恐れがある、ということだった。
 彼はそれを考慮しつつ、これらの戦跡と資料館を全部訪れるのは、そうでなくても非常に苦しいこと、時間がいくらあっても足りないことを教えてくれた。
 彼の提案は、資料館はひめゆり平和祈念資料館だけにして、あとは平和記念公園を訪れるだけにしたら、というものだ。今日は天気もいいし、岸壁から望む海はそれがそういう場所であったとしても、つまり多くの人が亡くなった場所であるにせよ、気持ちが解放されるから、と言う。
 さらに、彼の細君はまだこれらを訪れたことがないから一緒に行ったらどうか、そして自分は個展のための制作をアトリエでしている、とも言った。
 私はそのありがたい助言にしたがって、彼の細君が運転する車で、ひめゆり平和祈念資料館を訪れ、それぞれ別に展示を見た。

 「ひめゆり」というのは、植物のヒメユリのことではない、そうだ。
 「沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校は、それぞれに校友会誌がありました。一高女は『乙姫』、師範は『白百合』と名づけられていました。両校が併置されることによって、校友会誌もひとつになり、両方の名前の一部を合わせて『姫百合』となりました。ひらがなで『ひめゆり』を使うようになったのは戦後です」(ひめゆり平和祈念資料館ガイドブックより)。
 資料館には、5つの展示室と付属施設がある。第1展示室は「ひめゆりの青春」、第2展示室は「ひめゆりの戦場」、第3展示室は「解散命令と死の彷徨」、第4展示室は「鎮魂」、第5展示室は「回想」とテーマがつけられている。
 第4展示室には、沖縄戦で亡くなったひめゆりの学徒と教師の200名以上に及ぶ遺影が掲げられており、名前や人物像、そして死の状況が判明している範囲ですべての遺影の下に記されている。
 また、このひめゆり平和祈念資料館にあるひめゆりの塔の前には大きなガマ(洞窟)が今も残っているが、ここは当時、伊原第三外科壕として使われており、このガマの内部を実物大に再現したものも展示してある。
 このガマでは、アメリカ軍のガス弾攻撃によって、80余名が亡くなったそうだ。
 「1945年6月末、約90日間にわたる沖縄戦は終わりました。激しい砲爆撃により変わり果てた地には、数十万の死体が転がっていました。ここ伊原の陸軍病院第三外科壕内に重なり合っていたひめゆりの少女たちの白骨、近隣の山野のあちこちに横たわっていた多くの生徒たちの屍を合祀し、翌年4月6日「ひめゆりの塔」が建てられました」(ひめゆり平和祈念資料館ガイドブックより)。
 第5展示室からは中庭が見える。ここは花園になっている。中庭の真ん中にいっぱい咲いている花たち。あれほどのことがあって、あれほどの人が殺されて、そうして今、ここに花が咲いている。
 私は、第5展示室から外へ出て、この花園を前にして、泣いた。
 梅原君の細君と合流し、平和祈念公園へ行った。海と空。

 梅原邸に戻って、彼も合流した。もうそろそろ、沖縄を離れなくてはならない。
 車で宿へ寄ってもらって楽器を受け取り、市場で島とうがらしや果物を買い、3人で昼飯を食べた。小さな食堂だった。私は刺身の定食をとった。新鮮な刺身もどんぶりの味噌汁も、本当においしかった。食堂のおばあ、後からやって来たお客のおばあは、どちらもおだやかな笑顔だった。
 お客のおばあは、私の顔を見ると、あるテレビタレントの名前を挙げて「撮影で来たんでしょ、それともお休みで来たの?」と言い、私がいくらそのタレントではないと否定しても「いや、そうに違いない」と言い張って聞かなかった。
 那覇空港へ送ってもらい、2010年10月6日、私の沖縄4日間の旅は、終わった。
(終わり)