沖縄慰霊の日を迎えて 『4日間の沖縄 第3日後半 沖縄の基地を訪ねる』

 昼飯は、また梅原君おすすめの沖縄そば屋へ行った。私としては、沖縄にいる間にできるだけたくさんの沖縄そばを食いたいので、大歓迎だ。
 丘陵を昇り降りする道の途中にある、大きな沖縄そば屋に入った。
 この店もそうだが、多くの飲食店は、そのたたずまいが本土の飲食店とはだいぶ違う。少なくとも東京周辺には見られないものだ。
 飾りッ気のない鉄筋コンクリートの平家建てや2階建てで、やはり飾りっ気のないサッシがはまっている。看板も目立たない。地方の役場の小さな出張所か、地域の集会所のような雰囲気だ。
 けれども、画一的なチェーン店の店構えや、うその日本家屋の居酒屋などの外装がまさに軒並みの光景に飽き飽きしている目には、むしろすっきりとして潔い。
 土間に券売機があり、食券を買うようになっている。これもおもしろい。店内は大広間の座敷きで、低いテーブルがたくさんある。
 どっかりと腰掛けて、テーブルの上を見ると、葉っぱがたくさん入ったどんぶりが置いてある。どのテーブルにもあるから、これはトッピングであろう。葉っぱは、ヨモギだ。
 梅原君は、最初は普通に味わって、加減を見ながらヨモギを適宜加えると変わった味わいが楽しめるという。私は、テビチそばを注文した。宮古島での演奏会の後、レセプションでもテビチをたくさんごちそうになったが、本当にうまい。これにもたっぷりと入っていて、けちけちしていないのが良い。豚肉文化圏だからだろうか。テビチは一般に豚足のことだから、脂っこさもある。これがヨモギと実によく合うのである。

 そばに満足した私は、那覇のバスターミナルまで送ってもらって、別れた。
 行こうと考えたのは、嘉手納飛行場つまりアメリカ空軍の嘉手納基地だ。どうやって行くのかよく分からなかったが、バスターミナルで「嘉手納に行きたい」というと「嘉手納バス停」に行く路線を教えてくれた。
 午後の3時くらいに、バスに乗った。
 沖縄のバスは、車体が古い。東京の最新のバスとはかなり格差がある。降車のボタンはただの押しボタンでランプがない。別に一つひとつのボタンにランプがなくてもいいのだけれど。座席や床には傷みや汚れもある。私はそれも気にならないし、不快を感じたりはしない。
 マイカー社会で、利用者も少ないから仕方ないのかも知れないが、本土とのさまざまな面での格差の一端を感じて、おもしろくない。私は、だんだんと浮かれた気分から遠ざかっていく。
 高い建物のない、郊外のような道をずっとずっと走る。こんなに長く走る路線バスも、沖縄ならではなのだろう。

 乗車時間は、1時間くらいだったと思う。嘉手納バス停で降りた。
 乗車中に早くも爆音が聞こえてくるかと思ったが、まったく何も聞こえない。
 この日の午前、梅原邸で名護先生の話しを聞いている時、1回だけ上空を軍用機が通過した。ものすごい音で、会話が中断したのはもちろん、そこにいる全員が体をすくめて、何も見えるはずのない天井を見た。人間という動物のごく自然な反応だと思う。
 私が、今日の午後に行く嘉手納基地はこんな音がするのだろうかと言うと、梅原君は、こんな程度ではない、と言う。
 けれども、バスを降りても、やはり爆音は聞こえない。そんなに基地は遠いのだろうか。
 基地のそばに滑走路を一望できる「道の駅かでな」があると調べていたので、歩いてそこまで行くつもりだった。30分ほども歩いただろうか、この間1回だけ爆音を聞いた。しかし、一瞬であった。それ以外はやはり爆音は聞こえない。
 進行方向右側の基地の塀は、どこまでも果てしなく続いているかのように見える。県道74号と思われる道路を挟んで反対側には静かな住宅街がある。県道とはいっても片側2車線で真ん中には中央分離帯もある立派なものだ。
 基地の塀には米軍基地であることを示す看板があり、無断立ち入りを禁止している。違反者は日本政府に裁かれる、と警告している。

 ようやく道の駅を見つけた。周囲にはヤシの木が植えられていて、南国情緒がある。やはり静かだ。目の前が空軍基地でなければ、南日本のどこかの道の駅と変わりないことだろう。基地がなかったら、家族で楽しめる施設だ。
 喉が乾いた。1階で氷ぜんざい買って展望台に上がった。氷ぜんざいは沖縄の氷あずきのことで、小豆ではなく大粒の金時豆を煮たものが、かき氷に入れてある。
 もう午後5時を過ぎていたが、展望台には5、6人がいた。そのうちの1人は大きな三脚に載せた大きなビデオカメラを持っており、大きな望遠レンズが装着してある。別の1人はもっと大きな望遠レンズを付けたスチールカメラを持っている。ほかにも立派なカメラを持った人がいた。
 彼らが、軍用機が好きでそれを撮影に来た人なのか、それとも嫌いでそれを監視するため撮影に来た人なのかは、分からない。
 私はベンチに座って、氷ぜんざいを食っていたが、やはり爆音は聞こえない。滑走路のはるか向こうに戦闘機らしき飛行機があるが、のろのろと滑走路の上を動いて建物の陰に入って見えなくなった。
 カメラを持っている人が、携帯電話で誰かと話している。「うん、そうだな、今日はもう飛ばないな」。
 後で知ったのだが、ちょうど嘉手納基地では滑走路工事が始まったらしく、軍用機の発着が極端に少なかったのだ。

 基地があると、うるさいし、物騒だから問題になる。当然のことだ。うるささの忍耐にも限度があるし、物騒なのも命にかかわると黙っているわけにはいかない。
 しかし、もし仮に、あくまでも仮に、うるさくても物騒でも、基地が存在しないと、私たちみんなの生活や命が危険にさらされるというのなら、みんなが基地の存在をがまんしなければならない。
 そしてそのがまんは、生命や財産喪失の危険から避ける恩恵を受ける人は皆、一様に甘受しなければならない。これも当然のことだ。
 「基地はあった方がいいけれど、自分の家の前にはあって欲しくない」とか「基地は必要だと思うけれど、自分の土地だけは貸し出したくない」ということは通用しない。沖縄の人だけが、基地の存在によって、安静な生活を脅かされているなら、ただちに正されなければならない。
 これには議論の余地はまったくない。あらゆる手段を使って、沖縄の人たちが納得する方策を取らねばならない。
 それから、基地が雇用を生んでいるから仕方がない、という意見もあるが、それは、本末の転倒した、言語道断の理屈だ。基地があるのは、一応、必要だという前提のもとで存在しているわけで、雇用を生むために存在しているわけではない。雇用を生むためなら、本当に沖縄の人たちが望む形で雇用を創出しなければならない。

 これらは、沖縄に基地がどうしても必要だ、という前提の上での話しである。沖縄に基地は本当に必要なのだろうか、少なくとも今日ただ今において。
 ある人は、絶対に必要だと言う。沖縄に基地がなければアジアの平和は保てないという。話し合いや外交などまったく通じない国が攻めてくるのを防ぐことためにも必要だという。
 別のある人は、基地は沖縄返還時やベトナム戦争当時の政治的・国際的問題の残滓だという。そして、周辺の国といつも対話をすることで少しでも仲よくして、攻めて来ないように外交の手段を尽くすべきだという。基地があると、そこを狙って来るからかえって危険だともいう。

 バスを降りてから、もう2時間も経った。展望台にほとんど人はいない。
 私は、展望台を降りて、また元来た道を歩き始めた。爆音はやはりまったくない。
 うるさいのは、時折走りすぎる大型車両だ。米軍の車両もある。運転席には迷彩服に迷彩のヘルメットをかぶった白人と黒人の兵士が並んで座っているから、アメリカ軍の車だと思う。
 大型車が走り去ると、次の大きな車が来るまでの間、鳥が鳴いているのが聴こえる。住宅街の裏側には、少しは緑が残っているのだろうか。そこで南の国の鳥たちが鳴いているのだろうか。

 私は、おそらく日本で最もうるさい土地の一つであろう嘉手納基地のすぐそばで、日本のどこにでもあるくらいの“わずかなうるささ”を感じた。
 ここでの私は、非日常の時間を過ごしたストレンジャーであった。では、この土地の人々にとっても、この“わずかなうるささ”は、非日常であっただろうか。やはりいつもは“忍耐の限度を超えたうるささ”にさらされているのではないだろうか。
 風が、少しは涼しくなってきたようだ。空は、もうだいぶ赤く染まってきた。
(続く)