沖縄慰霊の日を控えて 『4日間の沖縄 第3日前半 故地を訪ねる』

 3日目の朝を迎えるにあたって、梅原君から事前に2つの助言があった。
 1つは、朝7時の「朝のあいさつ」大音声屋外放送は、3日目には不思議と気づかなくなり、寝坊するにしても睡眠に差し障りがなくなるということ。
 もう1つは、民宿の朝食は、予告された時間には「ナットちゃん」という納豆だけしか食卓に出ていないだろうけれど、あせらずに他のおかずや主食を待つべしということ。
 梅原君は、今の住居兼アトリエを建てるまでは、沖縄で個展をやる時にはいつもこの民宿に泊まっていたので、よく知っているのである。私はもちろん彼からこの民宿を紹介してもらった。

 前日に、民宿のおばあから「明日の朝は、お客さんお一人ですけれど、朝食をお出しします」との予告があった。時間は8時だという。この日は9時に梅原邸で、考古学研究の名護先生と待ち合わせだから、ちょうど良い時間だった。朝は苦手な私だが、7時40分頃に起きれば問題ないはずだ。
 沖縄本島に来て3日目の朝7時40分、私は携帯電話のアラームが作動するかしないかのうちに、さっと目覚めた。そして、その40分前に大音声で鳴り響いていたはずの、奥武島の「朝のあいさつ」大音声屋外放送には、まったく気づかなかったことに気づいた。
 洗面をして、着替えて、8時ちょうどに3階の部屋から1階の食堂に降りた。あいさつをして座ると、なるほど食卓には「ナットちゃん」と商標が書かれた納豆が置いてあるだけである。
 おばあは、懸命に調理をしている様子ではある。私は、おじいから渡してもらった新聞を読んで、待った。
 ちょうど10分ほどして、大きな盆に載ったおかずが運ばれてきた。卵焼き、焼き魚、ソーセージ、漬け物、ちょっとした惣菜など、品数も多くてどれもうまそうだ。見たことのない沖縄特産の野菜などもあった。 
 私は、納豆をこねたり、おかずをつまんだりしながら待っていると、ご飯と味噌汁が運ばれてきた。味噌汁はおおきなどんぶりにたっぷりとあり、おぼろ豆腐に似た「島豆腐」がいっぱい入っている。
 すでに8時20分になっていたが、どうしたことかまったく腹も立たず、魔法にでもかかったように、ありがたくおいしく、おだやかな気持ちで、一人、朝食をいただいた。
 玄関外のネコの大家族にあいさつし、前日と同じように橋を渡って梅原邸に向かった。奥武島から本島へ渡る橋のたもとでは、漁師たちが漁船の修理をしていた。漁船は、全体が真っ黒で大きく反り返った木造船だった。

 梅原邸には、すでに名護先生、梅原夫妻、それに梅原君の経営する雑貨店「さちばるまやー」のスタッフも集まっていた。遅れた詫びと言い訳を述べると、沖縄出身である名護先生は、それが沖縄の時間ですね、と笑ってくださった。
 梅原邸の板敷きに皆で座り、先生から話しをうかがった。先生は私たちに教えてくださったのは、先生が唱えている古代の沖縄と本土のヤマト政権の関係に関する説である。
 沖縄産のゴホウラと呼ばれる貝から作った腕輪がある。この腕輪が本土の古代ヤマト王権のシンボルであったこと、これを模して石で作った腕輪が本土の古墳からたくさん出土していること、当時のヤマトで盛んだった水信仰を太陽信仰に変革する運動と関係があったこと、その意味するところが内地の遺跡と沖縄に古くから伝わっている神歌から分かること、さらにいわゆる邪馬台国に対する新しい解釈などである。

 先生からゴホウラ貝を輪切りにした実物も見せていただいた。そして、ゴホウラ貝とそれらにまつわる遺物があるという玉城城(たまぐすくぐすく)へ行くことになった。
 玉城(たまぐすく)は梅原邸のあるこの一帯の地名だが、ここにある城(ぐすく)ということで玉城城と呼ばれる遺跡がある。
 城跡として、一般には中世の遺跡と考えられているが、ここはむしろ古い祭祀の場所であろうか。玉城も、この城があることから付いた地名なのではないだろうか。玉は魂のたまでもあろうから、玉城はとても聖性の深い場所だろうと思う。
 車で、海岸に近い梅原邸から真後ろの山に向かってずんずんと登り、途中から歩いて急な斜面を上がる。
 車を止めたところに、城の見取り図があった。周囲は四角く石垣で囲まれているが、その中心に、不規則な形の石垣で囲んだ場所が示されてあり、それは祭祀の中心地のようだ。
 そこで先生が先ほどのゴホウラ貝の輪切りを取り出して「この中心地の形とゴホウラ貝の形を比べてみてください。こんなに同じ形をしているのは、偶然でしょうか」と言う。私はただただ驚くばかりであった。
 眼下に真っ青な海を望む所まで上がって来ると、この城を囲む天然の岩の壁と、そこを掘削して作った不規則な形の穴(門)があった。
 門をくぐると、中に遺跡らしきものが散在している。そこで先生が、振り向いて「さあ、このくり抜かれた門の形を見てください。ゴホウラ貝の形とそっくりでしょう」。私はもはや一言もなかった。
 夏至の日には、この門のちょうど真ん中から太陽が昇るという。

 沖縄本島にもその周辺にも、よく知られているように、たくさんの祭祀に関する場所がある。梅原君には、沖縄の稲作発祥の地とされている湧水、海に信仰の対象となる石碑が建っている場所なども案内してもらった。
 沖縄には、生活空間である「街」のすぐ近くに、古くから人々の心のよりどころであった「故地」がたくさんある。
 故地が身近にあることで、沖縄の人々には、現代の生活で失われてしまったもの、とりわけ本土の都会では失われた心が、まだ残っているように思われる。あるいは、そうした心が沖縄の人々に残っていることで、故地もまたその風習や祭祀とともに残っているのかも知れない。おそらくそれは相互的なものだろう。
 沖縄の3つの「ち」として、街、基地、戦地を訪ねることを目的とした旅だが、思いのほかこの日は「故地」を訪ねることができた。
 さあ、午後からは、「街」「故地」に続いて、もう1つの「ち」である「基地」を見に行こう。
(続く)