脳と心 〜発達障害者の物語 序の7 発達障害と反対の発達障害〜

 発達障害の特徴的な症状として、コミュニケーション能力の問題がよく話題になる。人の気持ちが分からない、その場の空気を察知することができない、自分が人からどう見られているかを考えられない、などなど、学校、職場、趣味の集まりの場などでも、このあたりのことがうまくできないと周囲から浮いてしまうし、集団の一員として自分の能力を発揮できないことになってしまう。
 さて、私自身のことを考えてみると、このあたりのことは、かなりうまくできる方だと思う。人と一緒にいると、その表情や言葉の調子から、その人がどんな気持ちで何を考えているのか、それが口から出す言葉とは裏腹であっても、かなり正確に分かる方だと思う。
 その場の空気もよく読める。苦労しなくてもすぐに空気が分かるし、変化にも敏感だ。むしろ、空気が読めて、それが気になって気になって仕方がないのだ。
 常に、自分の言動が他者からどう見られているのかを気にしている。どう見られているかを正確に把握しているというよりも、どう見られているかがこれも気になって仕方がないのである。
 たとえば、幻覚や妄想を生じる精神疾患では、そうした症状を生じなければその病気ではない。あるかないかでいえば「ある」に関しては程度問題であるが、「ない」ことに関しては程度は存在しない。
 しかし、人の気持ちが分からない、という症状には程度がある。人の気持ちが本当に全然分からない人がいたり、人の気持ちを察するのが苦手な人がいたりするが、反対に、人の気持ちが分かり過ぎるくらい分かる、というのはどうなのだろう。極端に分からない人からグラデーションあるいは前に書いたようにスペクトラムとなっていて、「真ん中くらいの人」、それを越えてものすごく分かる人というのも、これも一種の病的な状態なのではないか、とある時から考えている。発達障害と反対の発達障害である。
 私自身が何かそういう病的な状態なのではないかとも思うのである。それに、街を歩いていても、電車に乗っていても、本を読んでいても、原稿を書いていても、発達障害のことが気になって仕方がない。これもちょっと変なのではないか、と思ったりする。
 自身でいうと、ちょっと能力として問題の部分もある。まず、方向音痴であるが、これははっきり病的である。生活にも大いに支障をきたしている。笑いごとではない。道に迷うとかたどり着けないといったことだけでなく、いつも見慣れている空間も、見る角度が変わると、もう同じ空間とは認識できなくなってしまう。
 名前の記憶が苦手で、10年間毎週のように会って話しをしている人でも、名前を憶えられなかったり、自信がなかったりする。名前という記号が、それの持つ本質的な意味と結びつかないようなのだ。
 ITというものが異常に苦手で、考えるだけでも憂鬱になるし、パニックを起こすこともある。まあ、これは神経症的なものかも知れない。
 発達障害というものは何なのか、発達障害者はどんな生き方をしてきたのか、これからどう生きるのがいいのか。
 専門的な解析、とりわけ脳神経科学の分野はもちろん専門家に任せるとして、私としては、一人の人間観察者として、これからも考え続けていきたい。
 いずれにしても、あらためてきちんとつながった評論として完成させたいと思っている。
(終わり)