脳と心 〜発達障害者の物語 序の1 発達障害をもっと知りたい〜

 数年前に、発達障害という脳の働き方の“問題”があると知って、興味を引かれた。少しずつその内容を知るにつけ興味は深まり、今はすっかり取りつかれてしまった。
 発達障害とはどういうものなのか知りたい、という気持ちと同時に、なぜ私は発達障害について強く興味を持っているかについても知りたい、と思っている。
 少なくとも私から見て、誰彼の相当に理解に苦しむ言動が、ある種の脳の機能の“障害”である、ということならば、もし本当にそうならば、それは目が開かれるような思いである。
 他人が自分の言動をどう見ているかまったく気にしている様子がない、会話をしていると急に聞いていないふうになる、服装に無頓着、ものすごく音を立てて食べる、こちらの意向を一切考えず勝手に何かをする、こちらの気持ちに関心がない、かちんとくることを平気で言う、いつもそわそわと落ち着かない、などなど。
 こう思いつくままに、発達障害やそれに近い発達障害タイプとされている人の言動を並べてみると、どれも印象はよくない。けれども、私はその前の文で“問題”とか“障害”などとわざわざ「“”」をつけて、社会でこうした行動を問題視することに疑問を呈するかのような表現にしている(障害、しょう害、障碍という表記そのものの問題についてはここでは措き、厚生労働省の表記に一応従う)。
 私がとりつかれたように発達障害への興味が深まっているのは、このよくない印象と問題視への疑問のはざまで、自分として発達障害をどう捉え理解したらいいのか、気持ちが揺れ動いているからなのだと思う。
 もう一つ、発達障害というものについて、あまりにも不明確な部分が多いということも、関心を強める原因だろう。これは私の理解が不十分な点ももちろんあるが、研究が進んでいないということもあるのではないか。
 さらに、人間の言動が、脳の機能というような極めて自然科学的な部分で説明ができてしまうかも知れない、といういわば未知への不安、極論すれば人間の気持ちや行動について、文学的な説明の意義が相当に弱まってしまうのではないかという不安でもある。
 しかし、私が発達障害について理解を深めたいと思ったいちばん大きな理由は、おそらく私の実父が発達障害なのではないか、だから私が子どもの頃から時折傷つけられてきた父の言動も理解できるのではないか、そうした思いにあると考えている。
 一方で、発達障害を持つ人と私は、どうしても相容れない部分があるのではないか、という疑問があり、これはつまり私が父と内面の部分で深く触れ合うことができないのではないか、という恐怖でもある。
 これから書くそれぞれの章については、いずれさらに詳しく論考したいと思っているが、まずはその序としてこれから書き並べてみよう。
(続く)

私の戦争1964 〜いくつかの7月1日〜

 私が生まれる19年前の7月1日、すなわち1945(昭和20)年の7月1日は、どんな日だったろう。私の手許にある、戦時中の作家らの(刊行された)日記をいくつか調べてみた。

 『ある科学者の戦中日記』(富塚清/中公新書/1976年)。著者は、ジェットエンジンの権威で、当時、東京大学の教授である。早くから日本の敗戦を予言しているが、声高に反戦を叫ぶわけではなく、むしろ各界に戦後の日本の立て直しを説いて回っている、当時としては非常に独特な生き方をしていた人物で、実に痛快である。いよいよ終戦間近になると、とにかく家庭菜園での食料生産に精を出していた。
 7月1日は、前日から石原莞爾の家を訪ねて談論している。午後「石原将軍」に異例の見送りをされ、鶴岡を発って象潟に講演と座談会に向かう。「今のように独立的な見識が乏しく、支配者のいいなり放題になっているのでは、戦後教育はどうなることか」と記している。

 『東京焼儘』(内田百/中公文庫/1978年)。百は焼け出されて、小屋住まいを余儀なくされているが、生活の状況や考えをずっと詳細に記録している。
 この日は、前日からの腹具合がまだよくならない。荷物の整理もできておらず、焼けてなくなった物について妻が愚痴を言う。
 「もともと無かった物も焼いたことにしようと私が教へる。ピアノ三台、ソフア一組、電気蓄音器、合羽坂の時分から家内が欲しがったのを許さなかった電気アイロン、それから蒸篭、ミシン等、惜しいことにみんな焼いてしまった、焼けたのでなくなつた。もともと無かつたかも知れないが有つたとしても矢つ張り同じ事である」と記す。 

 『戦中派不戦日記』(山田風太郎講談社文庫/1973年)。当時は医学生であったが、学校ごと長野県の飯田に疎開している。
 「B29、攻撃目標を中小都市に移しはじめたる模様にして、少数機ずつを以て殆ど日本全土を終日乱舞しあるごとく思わる。○沖縄戦ついに終焉を告げんとす。敵の発表によれば、司令官牛島中将は腹十文字に割腹、介錯により首は前に落ちいたりと」。
 ちなみに飯田は、現在私の両親が隠居している土地である。

 『断腸亭日乗』(永井荷風岩波文庫/1987年)。大正6年から42年間の日記である。空襲で焼け出されても持ち出した日記は、戦時中はもし官憲の目に触れれば直ちに逮捕されるような、痛烈な軍国批判が記されている。しかしその批判はもちろん冷徹な文学者の目によるもので、結果的にすばらしい文芸作品であるとも思う。
 6月29日以降7月31日まで記述はない。7月31日の記述の一部「東京は五月以来火災なく平穏無事今日に至れるが如し。但し他の人の端書によれば米三分豆七分の食料には困却せりといふ」。
 そして「見聞録」として「大阪市中にて人の拾ひたるビラ」の文面が記載されている。これも痛烈な軍閥批判である。終戦が15日後であるとはいえ、当時はもちろん治安維持法の厳格な中であるから、こうしたビラが出回るというのは大きな驚きであると、私も思う。

 私の両親は、この日どこで何をしていただろう。
 父は、旧満州ハルビンにいたであろう。満州国雇員として、農業土木技術の指導をしていたはずだ。空襲もなく、食料にもそれほど不自由はなかっただろう。だが1カ月後には軍から招集され、ソ満国境に向かい、終戦を迎え、命からがら日本に帰って来た。18歳であった。
 母は、3月の東京大空襲で焼け出され、福島に疎開中であったろう。不自由で肩身の狭い毎日を過ごした12歳であっただろう。

 終戦から19年経った1964年、今から50年前の7月1日は水曜日で、私は母のお腹の中にいた(はずだ)。東京オリンピックを間近に控え、母は東京の北区の社宅で汗だくだったと思う。
 それより10年遡って、1954年7月1日、自衛隊が発足した。
 今年、2014年7月1日、憲法解釈を閣議決定によって変えて、日本は集団的自衛権の行使が可能になり、外国での戦闘行為ができる国になった。

沖縄慰霊の日を迎えて 『4日間の沖縄 最終日 沖縄の戦地に咲く花を見た』

 沖縄を去る日の朝も、大音声(だいおんじょう)放送には気づかずに目覚めた。
 布団の上に寝転んだまま、窓から入ってくるさわやかな風を顔に受け、昨晩、那覇市内の小さな台湾料理屋で酔いしれたことを思い出す。シジミのニンニク醤油漬けの強烈な香りも、記憶として立ちのぼってくる。
 今日は、沖縄の戦地を訪ねる。街(まち)、故地(こち)、基地(きち)、そして4つめの「ち」となる「戦地(せんち)」の跡に行くのだ。
 宿の食堂に降りてみると、もう一人お客さんがいた。私よりも年配の男性で、近くに知人がいるとかで、しょっちゅう南城市には来るという。
 私はその男性と一緒に、おばあの指示に従ってバナナ牛乳を作って飲んだ。バナナと一緒に牛乳を飲むとカルシウムの吸収がすぐれていることを、おばあはやはりこの男性に説明している。
 勘定を済ませた。3回の朝のうち2回分は朝食がなかったので、安くなった。
 午後まで楽器を預かってもらうことにして出発する。おばあは急に思い出したように「これは楽器ですか。お客さんは、仕事で演奏をするのですか」と尋ねてきた。
 朝食は今日も、本島に渡る橋の手前にあるパーラーで、やっぱり沖縄そばを食べた。椅子に掛けて、つるんとした喉ごしの麺を飲み込み、豚肉の角煮の端をかじって顔を上げると、今日もまたすばらしい快晴であることが分かる。
 海沿いに歩いて、梅原邸に到着し、今日の計画を考える。
 梅原邸のある南城市から最南端に向かうと、まず平和祈念公園に出会う。ここに「平和祈念資料館」「平和の礎(いしじ)」「平和祈念堂」「国立沖縄戦没者苑」がある。さらに国道を先に進むと「ひめゆり平和祈念資料館」がある。
 私が梅原君に前から伝えていたのは、戦争などの悲惨な状況をつぶさに知ると、精神的に耐えられなくなる恐れがある、ということだった。
 彼はそれを考慮しつつ、これらの戦跡と資料館を全部訪れるのは、そうでなくても非常に苦しいこと、時間がいくらあっても足りないことを教えてくれた。
 彼の提案は、資料館はひめゆり平和祈念資料館だけにして、あとは平和記念公園を訪れるだけにしたら、というものだ。今日は天気もいいし、岸壁から望む海はそれがそういう場所であったとしても、つまり多くの人が亡くなった場所であるにせよ、気持ちが解放されるから、と言う。
 さらに、彼の細君はまだこれらを訪れたことがないから一緒に行ったらどうか、そして自分は個展のための制作をアトリエでしている、とも言った。
 私はそのありがたい助言にしたがって、彼の細君が運転する車で、ひめゆり平和祈念資料館を訪れ、それぞれ別に展示を見た。

 「ひめゆり」というのは、植物のヒメユリのことではない、そうだ。
 「沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校は、それぞれに校友会誌がありました。一高女は『乙姫』、師範は『白百合』と名づけられていました。両校が併置されることによって、校友会誌もひとつになり、両方の名前の一部を合わせて『姫百合』となりました。ひらがなで『ひめゆり』を使うようになったのは戦後です」(ひめゆり平和祈念資料館ガイドブックより)。
 資料館には、5つの展示室と付属施設がある。第1展示室は「ひめゆりの青春」、第2展示室は「ひめゆりの戦場」、第3展示室は「解散命令と死の彷徨」、第4展示室は「鎮魂」、第5展示室は「回想」とテーマがつけられている。
 第4展示室には、沖縄戦で亡くなったひめゆりの学徒と教師の200名以上に及ぶ遺影が掲げられており、名前や人物像、そして死の状況が判明している範囲ですべての遺影の下に記されている。
 また、このひめゆり平和祈念資料館にあるひめゆりの塔の前には大きなガマ(洞窟)が今も残っているが、ここは当時、伊原第三外科壕として使われており、このガマの内部を実物大に再現したものも展示してある。
 このガマでは、アメリカ軍のガス弾攻撃によって、80余名が亡くなったそうだ。
 「1945年6月末、約90日間にわたる沖縄戦は終わりました。激しい砲爆撃により変わり果てた地には、数十万の死体が転がっていました。ここ伊原の陸軍病院第三外科壕内に重なり合っていたひめゆりの少女たちの白骨、近隣の山野のあちこちに横たわっていた多くの生徒たちの屍を合祀し、翌年4月6日「ひめゆりの塔」が建てられました」(ひめゆり平和祈念資料館ガイドブックより)。
 第5展示室からは中庭が見える。ここは花園になっている。中庭の真ん中にいっぱい咲いている花たち。あれほどのことがあって、あれほどの人が殺されて、そうして今、ここに花が咲いている。
 私は、第5展示室から外へ出て、この花園を前にして、泣いた。
 梅原君の細君と合流し、平和祈念公園へ行った。海と空。

 梅原邸に戻って、彼も合流した。もうそろそろ、沖縄を離れなくてはならない。
 車で宿へ寄ってもらって楽器を受け取り、市場で島とうがらしや果物を買い、3人で昼飯を食べた。小さな食堂だった。私は刺身の定食をとった。新鮮な刺身もどんぶりの味噌汁も、本当においしかった。食堂のおばあ、後からやって来たお客のおばあは、どちらもおだやかな笑顔だった。
 お客のおばあは、私の顔を見ると、あるテレビタレントの名前を挙げて「撮影で来たんでしょ、それともお休みで来たの?」と言い、私がいくらそのタレントではないと否定しても「いや、そうに違いない」と言い張って聞かなかった。
 那覇空港へ送ってもらい、2010年10月6日、私の沖縄4日間の旅は、終わった。
(終わり)

沖縄慰霊の日を迎えて 『4日間の沖縄 第3日後半 沖縄の基地を訪ねる』

 昼飯は、また梅原君おすすめの沖縄そば屋へ行った。私としては、沖縄にいる間にできるだけたくさんの沖縄そばを食いたいので、大歓迎だ。
 丘陵を昇り降りする道の途中にある、大きな沖縄そば屋に入った。
 この店もそうだが、多くの飲食店は、そのたたずまいが本土の飲食店とはだいぶ違う。少なくとも東京周辺には見られないものだ。
 飾りッ気のない鉄筋コンクリートの平家建てや2階建てで、やはり飾りっ気のないサッシがはまっている。看板も目立たない。地方の役場の小さな出張所か、地域の集会所のような雰囲気だ。
 けれども、画一的なチェーン店の店構えや、うその日本家屋の居酒屋などの外装がまさに軒並みの光景に飽き飽きしている目には、むしろすっきりとして潔い。
 土間に券売機があり、食券を買うようになっている。これもおもしろい。店内は大広間の座敷きで、低いテーブルがたくさんある。
 どっかりと腰掛けて、テーブルの上を見ると、葉っぱがたくさん入ったどんぶりが置いてある。どのテーブルにもあるから、これはトッピングであろう。葉っぱは、ヨモギだ。
 梅原君は、最初は普通に味わって、加減を見ながらヨモギを適宜加えると変わった味わいが楽しめるという。私は、テビチそばを注文した。宮古島での演奏会の後、レセプションでもテビチをたくさんごちそうになったが、本当にうまい。これにもたっぷりと入っていて、けちけちしていないのが良い。豚肉文化圏だからだろうか。テビチは一般に豚足のことだから、脂っこさもある。これがヨモギと実によく合うのである。

 そばに満足した私は、那覇のバスターミナルまで送ってもらって、別れた。
 行こうと考えたのは、嘉手納飛行場つまりアメリカ空軍の嘉手納基地だ。どうやって行くのかよく分からなかったが、バスターミナルで「嘉手納に行きたい」というと「嘉手納バス停」に行く路線を教えてくれた。
 午後の3時くらいに、バスに乗った。
 沖縄のバスは、車体が古い。東京の最新のバスとはかなり格差がある。降車のボタンはただの押しボタンでランプがない。別に一つひとつのボタンにランプがなくてもいいのだけれど。座席や床には傷みや汚れもある。私はそれも気にならないし、不快を感じたりはしない。
 マイカー社会で、利用者も少ないから仕方ないのかも知れないが、本土とのさまざまな面での格差の一端を感じて、おもしろくない。私は、だんだんと浮かれた気分から遠ざかっていく。
 高い建物のない、郊外のような道をずっとずっと走る。こんなに長く走る路線バスも、沖縄ならではなのだろう。

 乗車時間は、1時間くらいだったと思う。嘉手納バス停で降りた。
 乗車中に早くも爆音が聞こえてくるかと思ったが、まったく何も聞こえない。
 この日の午前、梅原邸で名護先生の話しを聞いている時、1回だけ上空を軍用機が通過した。ものすごい音で、会話が中断したのはもちろん、そこにいる全員が体をすくめて、何も見えるはずのない天井を見た。人間という動物のごく自然な反応だと思う。
 私が、今日の午後に行く嘉手納基地はこんな音がするのだろうかと言うと、梅原君は、こんな程度ではない、と言う。
 けれども、バスを降りても、やはり爆音は聞こえない。そんなに基地は遠いのだろうか。
 基地のそばに滑走路を一望できる「道の駅かでな」があると調べていたので、歩いてそこまで行くつもりだった。30分ほども歩いただろうか、この間1回だけ爆音を聞いた。しかし、一瞬であった。それ以外はやはり爆音は聞こえない。
 進行方向右側の基地の塀は、どこまでも果てしなく続いているかのように見える。県道74号と思われる道路を挟んで反対側には静かな住宅街がある。県道とはいっても片側2車線で真ん中には中央分離帯もある立派なものだ。
 基地の塀には米軍基地であることを示す看板があり、無断立ち入りを禁止している。違反者は日本政府に裁かれる、と警告している。

 ようやく道の駅を見つけた。周囲にはヤシの木が植えられていて、南国情緒がある。やはり静かだ。目の前が空軍基地でなければ、南日本のどこかの道の駅と変わりないことだろう。基地がなかったら、家族で楽しめる施設だ。
 喉が乾いた。1階で氷ぜんざい買って展望台に上がった。氷ぜんざいは沖縄の氷あずきのことで、小豆ではなく大粒の金時豆を煮たものが、かき氷に入れてある。
 もう午後5時を過ぎていたが、展望台には5、6人がいた。そのうちの1人は大きな三脚に載せた大きなビデオカメラを持っており、大きな望遠レンズが装着してある。別の1人はもっと大きな望遠レンズを付けたスチールカメラを持っている。ほかにも立派なカメラを持った人がいた。
 彼らが、軍用機が好きでそれを撮影に来た人なのか、それとも嫌いでそれを監視するため撮影に来た人なのかは、分からない。
 私はベンチに座って、氷ぜんざいを食っていたが、やはり爆音は聞こえない。滑走路のはるか向こうに戦闘機らしき飛行機があるが、のろのろと滑走路の上を動いて建物の陰に入って見えなくなった。
 カメラを持っている人が、携帯電話で誰かと話している。「うん、そうだな、今日はもう飛ばないな」。
 後で知ったのだが、ちょうど嘉手納基地では滑走路工事が始まったらしく、軍用機の発着が極端に少なかったのだ。

 基地があると、うるさいし、物騒だから問題になる。当然のことだ。うるささの忍耐にも限度があるし、物騒なのも命にかかわると黙っているわけにはいかない。
 しかし、もし仮に、あくまでも仮に、うるさくても物騒でも、基地が存在しないと、私たちみんなの生活や命が危険にさらされるというのなら、みんなが基地の存在をがまんしなければならない。
 そしてそのがまんは、生命や財産喪失の危険から避ける恩恵を受ける人は皆、一様に甘受しなければならない。これも当然のことだ。
 「基地はあった方がいいけれど、自分の家の前にはあって欲しくない」とか「基地は必要だと思うけれど、自分の土地だけは貸し出したくない」ということは通用しない。沖縄の人だけが、基地の存在によって、安静な生活を脅かされているなら、ただちに正されなければならない。
 これには議論の余地はまったくない。あらゆる手段を使って、沖縄の人たちが納得する方策を取らねばならない。
 それから、基地が雇用を生んでいるから仕方がない、という意見もあるが、それは、本末の転倒した、言語道断の理屈だ。基地があるのは、一応、必要だという前提のもとで存在しているわけで、雇用を生むために存在しているわけではない。雇用を生むためなら、本当に沖縄の人たちが望む形で雇用を創出しなければならない。

 これらは、沖縄に基地がどうしても必要だ、という前提の上での話しである。沖縄に基地は本当に必要なのだろうか、少なくとも今日ただ今において。
 ある人は、絶対に必要だと言う。沖縄に基地がなければアジアの平和は保てないという。話し合いや外交などまったく通じない国が攻めてくるのを防ぐことためにも必要だという。
 別のある人は、基地は沖縄返還時やベトナム戦争当時の政治的・国際的問題の残滓だという。そして、周辺の国といつも対話をすることで少しでも仲よくして、攻めて来ないように外交の手段を尽くすべきだという。基地があると、そこを狙って来るからかえって危険だともいう。

 バスを降りてから、もう2時間も経った。展望台にほとんど人はいない。
 私は、展望台を降りて、また元来た道を歩き始めた。爆音はやはりまったくない。
 うるさいのは、時折走りすぎる大型車両だ。米軍の車両もある。運転席には迷彩服に迷彩のヘルメットをかぶった白人と黒人の兵士が並んで座っているから、アメリカ軍の車だと思う。
 大型車が走り去ると、次の大きな車が来るまでの間、鳥が鳴いているのが聴こえる。住宅街の裏側には、少しは緑が残っているのだろうか。そこで南の国の鳥たちが鳴いているのだろうか。

 私は、おそらく日本で最もうるさい土地の一つであろう嘉手納基地のすぐそばで、日本のどこにでもあるくらいの“わずかなうるささ”を感じた。
 ここでの私は、非日常の時間を過ごしたストレンジャーであった。では、この土地の人々にとっても、この“わずかなうるささ”は、非日常であっただろうか。やはりいつもは“忍耐の限度を超えたうるささ”にさらされているのではないだろうか。
 風が、少しは涼しくなってきたようだ。空は、もうだいぶ赤く染まってきた。
(続く)

沖縄慰霊の日を控えて 『4日間の沖縄 第3日前半 故地を訪ねる』

 3日目の朝を迎えるにあたって、梅原君から事前に2つの助言があった。
 1つは、朝7時の「朝のあいさつ」大音声屋外放送は、3日目には不思議と気づかなくなり、寝坊するにしても睡眠に差し障りがなくなるということ。
 もう1つは、民宿の朝食は、予告された時間には「ナットちゃん」という納豆だけしか食卓に出ていないだろうけれど、あせらずに他のおかずや主食を待つべしということ。
 梅原君は、今の住居兼アトリエを建てるまでは、沖縄で個展をやる時にはいつもこの民宿に泊まっていたので、よく知っているのである。私はもちろん彼からこの民宿を紹介してもらった。

 前日に、民宿のおばあから「明日の朝は、お客さんお一人ですけれど、朝食をお出しします」との予告があった。時間は8時だという。この日は9時に梅原邸で、考古学研究の名護先生と待ち合わせだから、ちょうど良い時間だった。朝は苦手な私だが、7時40分頃に起きれば問題ないはずだ。
 沖縄本島に来て3日目の朝7時40分、私は携帯電話のアラームが作動するかしないかのうちに、さっと目覚めた。そして、その40分前に大音声で鳴り響いていたはずの、奥武島の「朝のあいさつ」大音声屋外放送には、まったく気づかなかったことに気づいた。
 洗面をして、着替えて、8時ちょうどに3階の部屋から1階の食堂に降りた。あいさつをして座ると、なるほど食卓には「ナットちゃん」と商標が書かれた納豆が置いてあるだけである。
 おばあは、懸命に調理をしている様子ではある。私は、おじいから渡してもらった新聞を読んで、待った。
 ちょうど10分ほどして、大きな盆に載ったおかずが運ばれてきた。卵焼き、焼き魚、ソーセージ、漬け物、ちょっとした惣菜など、品数も多くてどれもうまそうだ。見たことのない沖縄特産の野菜などもあった。 
 私は、納豆をこねたり、おかずをつまんだりしながら待っていると、ご飯と味噌汁が運ばれてきた。味噌汁はおおきなどんぶりにたっぷりとあり、おぼろ豆腐に似た「島豆腐」がいっぱい入っている。
 すでに8時20分になっていたが、どうしたことかまったく腹も立たず、魔法にでもかかったように、ありがたくおいしく、おだやかな気持ちで、一人、朝食をいただいた。
 玄関外のネコの大家族にあいさつし、前日と同じように橋を渡って梅原邸に向かった。奥武島から本島へ渡る橋のたもとでは、漁師たちが漁船の修理をしていた。漁船は、全体が真っ黒で大きく反り返った木造船だった。

 梅原邸には、すでに名護先生、梅原夫妻、それに梅原君の経営する雑貨店「さちばるまやー」のスタッフも集まっていた。遅れた詫びと言い訳を述べると、沖縄出身である名護先生は、それが沖縄の時間ですね、と笑ってくださった。
 梅原邸の板敷きに皆で座り、先生から話しをうかがった。先生は私たちに教えてくださったのは、先生が唱えている古代の沖縄と本土のヤマト政権の関係に関する説である。
 沖縄産のゴホウラと呼ばれる貝から作った腕輪がある。この腕輪が本土の古代ヤマト王権のシンボルであったこと、これを模して石で作った腕輪が本土の古墳からたくさん出土していること、当時のヤマトで盛んだった水信仰を太陽信仰に変革する運動と関係があったこと、その意味するところが内地の遺跡と沖縄に古くから伝わっている神歌から分かること、さらにいわゆる邪馬台国に対する新しい解釈などである。

 先生からゴホウラ貝を輪切りにした実物も見せていただいた。そして、ゴホウラ貝とそれらにまつわる遺物があるという玉城城(たまぐすくぐすく)へ行くことになった。
 玉城(たまぐすく)は梅原邸のあるこの一帯の地名だが、ここにある城(ぐすく)ということで玉城城と呼ばれる遺跡がある。
 城跡として、一般には中世の遺跡と考えられているが、ここはむしろ古い祭祀の場所であろうか。玉城も、この城があることから付いた地名なのではないだろうか。玉は魂のたまでもあろうから、玉城はとても聖性の深い場所だろうと思う。
 車で、海岸に近い梅原邸から真後ろの山に向かってずんずんと登り、途中から歩いて急な斜面を上がる。
 車を止めたところに、城の見取り図があった。周囲は四角く石垣で囲まれているが、その中心に、不規則な形の石垣で囲んだ場所が示されてあり、それは祭祀の中心地のようだ。
 そこで先生が先ほどのゴホウラ貝の輪切りを取り出して「この中心地の形とゴホウラ貝の形を比べてみてください。こんなに同じ形をしているのは、偶然でしょうか」と言う。私はただただ驚くばかりであった。
 眼下に真っ青な海を望む所まで上がって来ると、この城を囲む天然の岩の壁と、そこを掘削して作った不規則な形の穴(門)があった。
 門をくぐると、中に遺跡らしきものが散在している。そこで先生が、振り向いて「さあ、このくり抜かれた門の形を見てください。ゴホウラ貝の形とそっくりでしょう」。私はもはや一言もなかった。
 夏至の日には、この門のちょうど真ん中から太陽が昇るという。

 沖縄本島にもその周辺にも、よく知られているように、たくさんの祭祀に関する場所がある。梅原君には、沖縄の稲作発祥の地とされている湧水、海に信仰の対象となる石碑が建っている場所なども案内してもらった。
 沖縄には、生活空間である「街」のすぐ近くに、古くから人々の心のよりどころであった「故地」がたくさんある。
 故地が身近にあることで、沖縄の人々には、現代の生活で失われてしまったもの、とりわけ本土の都会では失われた心が、まだ残っているように思われる。あるいは、そうした心が沖縄の人々に残っていることで、故地もまたその風習や祭祀とともに残っているのかも知れない。おそらくそれは相互的なものだろう。
 沖縄の3つの「ち」として、街、基地、戦地を訪ねることを目的とした旅だが、思いのほかこの日は「故地」を訪ねることができた。
 さあ、午後からは、「街」「故地」に続いて、もう1つの「ち」である「基地」を見に行こう。
(続く)

沖縄慰霊の日を控えて 『4日間の沖縄 第2日後半 街の「ち」を見る』

 やって来られた考古学研究者は、名護博さんという沖縄本島出身の方で本職は農学博士、現在は瀬戸内短期大学で教授をしておられるそうだ。
 私が滞在している短い間にお会いできたというその偶然は、私にはまったくの幸運であった。名護先生とは翌日の朝に再会して、沖縄の古代史を、この玉城(たまぐすく)の地にある遺跡を訪ねながらいろいろと教えていただくことを約した。
 
 さて、今日は沖縄の街を見る予定だ。今回の旅の目的である3つの「ち」を見ること、つまり「街」「基地」「戦地」のうち、まず街を訪れる。
 順番としては、何となく、現代の沖縄の人々の暮らしを垣間見ることができるであろう「街」から始まって、日本人であれば誰もが避けて通ることができない「基地」、そしてやはり目を背けることのできない戦争の跡地である「戦地」を最後に見ようと考えていた。
 これは梅原君が考えていた、私が初めての沖縄を見る順番と同じだった。
 沖縄というと、米軍基地の問題や、戦争での地上戦をすぐに思い浮かべてしまうが、生き延びた人たちが、この地で、営々と元気に生活を続けていることを忘れてはならない。働き、飲み、歌っているのだ。
 そのためにも、しっかりと街を見たい。私も彼も、そう考えていた。そしてその順番として、歴史を遡っていくのが適切なのだと考えていたそうだ。
 
 梅原夫妻の車に乗せてもらって、まず那覇に出て昼ご飯を食べることにした。お勧めの食堂があるという。なるほど「丸安食堂」は、彼が勧めてくれるのももっとな店だ。
 券売機で食券を買って出し、カウンターで外気に体をさらして食う店のたたずまいはすばらしく、その食い物もうまい。沖縄そばも食いたかったが、ここは、ヘチマと豆腐とランチョンミートの炒めもの定食にした。ヘチマを食ったのは初めてである。小さなヘチマで、炒めても水分が保たれており、歯ざわりが良かった。
 ランチョンミートが入っているのは、米軍占領時代の大きな名残りであろう。
 私が子どもの頃、東京の生活では時々コンビーフを食った。沖縄ではそれが、同じミンチ肉の缶詰めでも、牛肉ではなく豚肉を主原料としたランチョンミートであったわけで、しかも、長期にわたる占領時代と現在も続く基地の時代があり、その文化的影響は、良きにつけ悪しきにつけ、深まったのだと思う。
 丸安食堂には、沖縄そば、こうした炒め物の定食類、沖縄の焼きそば(沖縄そばの麺を炒めたもので、沖縄にはケチャップ味もある)など、狭い厨房ながら品書きは豊富だ。
 女性が2、3人働いており、中華鍋を振ったり、ご飯を盛り付けたり忙しそうにしていた。

 この食堂の裏に、昔からの市場があるというので、そこを振り出しに、商店街なども案内してもらうことにした。
 よく知られている国際通りは、もう完全に観光客向けの通りであり、それはそれで良いのだが、私には興味はない。ここにある屋内の市場も、鮮やかな色彩をした食用の熱帯性海水魚やイセエビが並ぶ様子が有名だが、梅原君が最初に案内してくれたのは、観光客とはほとんど無縁の市場である。
 昼過ぎだったせいもあり、ほとんどの商店は店を閉めていたが、何人かの“おばあ”が、木造の大屋根の下に野菜を並べてい 近くのアーケード街は、東京あたりでも私鉄沿線にありそうな庶民的な商店街だ。
 ただ、やはり売っているものに特徴がある。惣菜屋には、てんぷらがたくさんあり、これは沖縄では飯の菜としても、酒の肴としても、とてもよく食べられているだそうだ。刺身は、外食でも家庭でも食膳によく上がるようだ。
 果物をそのままジュースにして売っている店もいくつかあり、これなどは東南アジアで最も普通に見られる光景だ。私は、とろりとして甘いグァバジュースを飲んだ。
 これらの市場や商店街、その裏通りをうろうろしていると、たらいに山盛りになったもやしの「ヒゲ」を摘み取りながら、話しをしているおばあを見かける。
 お年寄りになっても、できる仕事をして、社会とつながり、親しい人とも顔を合わせる生活が、ここにはある。

 梅原君たちは、那覇近郊に用事があるとのことで、私は、市場の裏通りに腰掛けてしばらく過ごした。
 ペットボトルの飲み物を買ったが、宮古島と同じく冷たいジャスミン茶がどの自販機にもある。そして、販売価格が100円から150円までバラバラなのも興味深い。
 ほとんど人も通らない路地裏だが、日の光がいっぱいに当たって明るい。少し離れたところに保育園か幼稚園があるのだろう、子どもたちのさざめきが聞こえてくる。私はザックを下ろし、縁石に座ってしばしまどろんだ。

 東京で暮らしていると、街の様子が平板で凹凸がなく、つまり陰影が見られず、すなわち“心の隠れ家”がなかなか得られない、という感覚になる。同質性の中で同質性を強要されるような気持ちにもなる。
 沖縄は、ゆるやかで、のんびりとしていて、追い立てられることなく、ただそこに佇んでいることが許される、そんな雰囲気があるように思う。那覇の街には光と影がたくさんあり、私はそこに安心感を覚える。
 けれどもそれは、ヤマトのアヅマからやって来た旅人の感覚であることは間違いない。そして、決して私は、琉球人にはなれないから、そこに住む人々の気持ちを心底から分かることはできない。
 だが、それはそれとしても、琉球の人々の心を、常に知ろうとする心を持ち続けたいものだ、と思う。

 夕方、梅原君の車に拾ってもらって、玉城へ戻った。途中、ドライブインで梅原君の友人である、カメラマンのヤフネアキヒロさん、沖縄の染め物である紅型(びんがた)作家の縄トモコさんと待ち合わせ、飲み食いし、さらに梅原邸で、引き続き飲んだ。
 ドライブインで飲み残した泡盛を持ち込み、私はこのお二人とのさらなる出会いに喜び、酩酊した。ようやく夜風が涼しくなって、ゆっくりと眠った。
(続く)

沖縄慰霊の日を控えて 『4日間の沖縄 第2日前半 おばあのバナナ牛乳』

 「皆さん!! おはようございます!!!」という、窓外からの大音声(だいおんじょう)が耳に飛び込んできた。
 思わず「ううっ」とうめいて、眼鏡を掛けないまま、枕元の携帯を手探りで探し引き寄せ、顔にうんと近付けて見る。午前7時。“元気いっぱい”の声はまだ続いている。役場から島民への朝のあいさつの放送なのだろう。外はカンカンに明るい。しかし放送が終わると、また、意識は沈んでいった。
 次に目覚めたのは、もう10時近かった。今日はまず梅原邸を訪ねて、それから那覇市内へ行くつもりだ。階下へ降りておばあにあいさつし食堂に入った。おじいが一番奥の椅子に腰掛けており、私があいさつをすると自分で読んでいた新聞を私に持って来てくれた。
 おばあが奥から「今、バナナ牛乳を出します」とのことで待っていると、お盆に載せたそれを運んで来た。大きめのマグカップとそこに立てたスプーン、バナナが1本、それに牛乳の1リットルパックがそこにはある。目の前で作ってくれるのだろうか。だが、そうではなかった。おばあは私の正面に座ると淡々と説明を始めた。
 「まず、バナナを3分の1食べてください」。私は言われるままに自分でバナナの皮をむき、2口ほどでバナナ3分の1を、むぐむぐと咀嚼して飲み込んだ。
 「残りをスプーンで折りながら、カップに入れてください」。私は言われるままにバナナ3分の2をいくつかに切ってカップに入れた。そこにおばあが、牛乳を少し入れてくれる。
 「スプーンでバナナをほぐしてください」。私は言われるままにカチャカチャとカップの中のバナナを突きほぐした。最初にバナナを3分の1食べたのは、カップに入り切らないからに違いない。
 ふと目を上げると、玄関の網戸の外で陽をいっぱいに浴びて子猫が何匹かじゃれている。すばらしい天気だ。
 しかしすぐに、また少し牛乳が注がれて私はハッと我れに返る。私は牛乳を注ぐことはできず、おばあの手許にあり、その裁量権はすべておばあにある。いや、このバナナ牛乳を作る裁量権のすべてがおばあにあるのだ。けれども、私は魔法にかかったように何の疑問を感じることもなく、おばあに言われるままにバナナを突きほぐし続けた。
 やがて最後の牛乳がなみなみと注がれて、バナナ牛乳は完成した。「バナナと一緒だと、牛乳のカルシウムはとても良く吸収されるんですよ」と説明してくれたおばあは、盆を持って奥へ戻って行った。おじいは、別の新聞を読んでいる。バナナ牛乳は、甘く冷たくて本当においしかった。ミキサーで作ったわけではないので、粒つぶがある。これをスプーンですくいながら、あっという間に飲み尽くしてしまった。
 私はおばあに出発する旨を告げ、この宿の門限を聞いた。今晩は梅原君らと飲むことになるはずで遅くなるからだ。
 「門限はありません、ドアも開けたまま、窓も全部開けたままで、カギもかけません。シャワーは自分であそこのスイッチを押して使ってください」と言う。そして「明日もお客様お1人ですが、明日は朝食を出します。8時でいかがですか」と説明があった。私はやっぱり魔法にかかったように何の疑問も感じることなく了解し、礼を述べて民宿を出発した。

 あらためて朝ごはんを食べよう。ちょっと歩くと海に出た。海は大きな川幅程度で向こう側は沖縄本島だ。対岸へは橋を渡る。昨晩おばあが言ったように食堂があり、すでに営業している。扉はなく開けっぴろげで、外にもオープンカフェのようにテーブルが並んでいる。
 これは「パーラー」という沖縄地方だけで許可されている飲食店の形態だと後に聞いた。本土、少なくとも東京周辺ででは、いわゆるオープンカフェを除いてこうした形の店はほとんど存在せず、あるのは「店鋪」か「屋台」だけだ。しかし、南中国や台湾、東南アジアではむしろ、こうした形態は私が最もよく見かけた。
 パーラーだけでなく、民家など一般の建物も、およそ本土とは様子が異なる。泊まっている民宿もそうだが、鉄筋コンクリート2階か3階の四角い建物で、テラスや屋上にちょっと装飾のある手すりが見える。これらも本土ではまず見られないが、やはり中国南部以南では最も一般的な形式だ。
 こうした飲食店や建物の形は、戦後にできあがったものであろうか。そうだとすれば、アメリカの統治下で現れてきたものだと思うが、誰がこの地にもたらしたのだろう。古代から南方地域と沖縄の間に交流があるとは聞いていたが、現代の交流にも興味がある。
 沖縄の民家というと「赤瓦」を思い浮かべるし、実際、街中でも見られないことはないが、思ったほどは数は多くない。街の景観の違いは、現在の本土各地の間では感じにくくなっているが、沖縄にはそれがはっきりとある。「東南アジアのようだ」という感想を持ったとしてもそれは外れではないが、やはり「ここは沖縄なのだ」と考えるべきだと、私は思う。

 さて、パーラーの外のテーブルに掛けて、お店の人に「そばできますか」と聞いた。品書きには「沖縄そば」とあったが「沖縄そばできますか」と聞かなかったところがミソだ。ちょっと“通”ぶってみたのである。
 沖縄のそばは「そば」といっても、そば粉はまったく含まれていない。「中華そば」と同様に、そばのような形状からそう呼ばれるのだろう。だが、形状で見てもやはりそばとは遠い。麺の形は細めで平ベったいうどんに見える。小麦粉にかんすいも入っているようだ。
 法律では、そば粉が入っていなければ「そば」と称することはできないからか「沖縄そば」と称しているが、現地の人は単に「そば」と呼んでいるようだ。
 一方で、沖縄には日本そば屋は少ないし、うどん屋も見かけない。ラーメン屋でさえ那覇国際通りで見るだけのようだ。そのかわり、街中にも街外れの山の上にも「そば」の看板を出している店はとても多い。
 沖縄そばを滞在中に何回か食べたが、上に載せる具はもちろん、つゆにもいろいろな種類があるようだ。この店のつゆは、豚コツでも出汁を取っているのだろう、こってりとしていてまたうまかった。小粒の唐辛子を泡盛に漬け込んだ「島とうがらし」をたっぷりかけたら、脳も身体も完全に目覚めた。

 店の目の前にある橋を渡って本島へ。それから海沿いに歩く。梅原邸兼アトリエは、彼が経営している服と小物の店「さちばるまやー」に隣接しており、それは海辺にあるので、海岸線に沿って歩けば行き当たる。
 それにしても日ざしが強烈だ。日光をさえぎるものはまったくなく、コンクリートの細道を真っ白な光にさらされながら歩く。1匹の犬が向こうからこちらにまっすぐ走って来る。野良犬だろうか。私に出会う直前で、少し進路を変えて、私の脇を過ぎて行った。行き交う人はいない。
 ようやく、それらしき建物と何度か会ったことのある彼の妻の姿が見えた。お店は小さいけれど、あたたかくやさしい雰囲気だ。スタッフの女性がいて、静かにあいさつしてくれた。家は少し高台にあり、階段のかたわらには見事なガジュマルがあり、無数の根が地面にささっている。
 梅原邸は巨大な岩を背にして建っている。梅原君は「歓迎のために草を刈っていたところです」と言って、汗をぬぐった。私も汗を拭きながら縁側に腰掛けていると、いつのまにか1人の中年男性が木の箱を持って庭に入って来て、黙ってその箱を置いた。蜜蜂の巣箱だ。別の若い男性やお店のスタッフもやってきて、たちまち庭先はにぎやかになった。
 「分蜂(ぶんぽう)」をするのだという。蜂を増やすために、群れを分けることらしい。巣箱を持ってきた男性ともう1人男性との会話は、沖縄の言葉であり、私にはまったく聞き取れない。
 いきなり蜜蜂の巣箱を持って来て庭に置くなど、都会の生活では考えられないことだが、何かごく自然の日常風景のように見えた。
 いろいろな人が、いろいろな用事があったり用事がなかったりして、ここにやって来ると梅原君はいう。そうした人の中に、沖縄の考古学研究をしている年輩の男性がいるそうだ。本業は農学博士だが、この人の話しが興味深いから一緒に聞きたいのだが、沖縄と本土を行き来しており年に数回しか会えないので期待はできない、と話した。
 その時、マングローブの横を通ってまた一人階段を上がって来た。まさにその考古学研究者であった。
(続く)