沖縄慰霊の日を控えて 『4日間の沖縄 第2日前半 おばあのバナナ牛乳』

 「皆さん!! おはようございます!!!」という、窓外からの大音声(だいおんじょう)が耳に飛び込んできた。
 思わず「ううっ」とうめいて、眼鏡を掛けないまま、枕元の携帯を手探りで探し引き寄せ、顔にうんと近付けて見る。午前7時。“元気いっぱい”の声はまだ続いている。役場から島民への朝のあいさつの放送なのだろう。外はカンカンに明るい。しかし放送が終わると、また、意識は沈んでいった。
 次に目覚めたのは、もう10時近かった。今日はまず梅原邸を訪ねて、それから那覇市内へ行くつもりだ。階下へ降りておばあにあいさつし食堂に入った。おじいが一番奥の椅子に腰掛けており、私があいさつをすると自分で読んでいた新聞を私に持って来てくれた。
 おばあが奥から「今、バナナ牛乳を出します」とのことで待っていると、お盆に載せたそれを運んで来た。大きめのマグカップとそこに立てたスプーン、バナナが1本、それに牛乳の1リットルパックがそこにはある。目の前で作ってくれるのだろうか。だが、そうではなかった。おばあは私の正面に座ると淡々と説明を始めた。
 「まず、バナナを3分の1食べてください」。私は言われるままに自分でバナナの皮をむき、2口ほどでバナナ3分の1を、むぐむぐと咀嚼して飲み込んだ。
 「残りをスプーンで折りながら、カップに入れてください」。私は言われるままにバナナ3分の2をいくつかに切ってカップに入れた。そこにおばあが、牛乳を少し入れてくれる。
 「スプーンでバナナをほぐしてください」。私は言われるままにカチャカチャとカップの中のバナナを突きほぐした。最初にバナナを3分の1食べたのは、カップに入り切らないからに違いない。
 ふと目を上げると、玄関の網戸の外で陽をいっぱいに浴びて子猫が何匹かじゃれている。すばらしい天気だ。
 しかしすぐに、また少し牛乳が注がれて私はハッと我れに返る。私は牛乳を注ぐことはできず、おばあの手許にあり、その裁量権はすべておばあにある。いや、このバナナ牛乳を作る裁量権のすべてがおばあにあるのだ。けれども、私は魔法にかかったように何の疑問を感じることもなく、おばあに言われるままにバナナを突きほぐし続けた。
 やがて最後の牛乳がなみなみと注がれて、バナナ牛乳は完成した。「バナナと一緒だと、牛乳のカルシウムはとても良く吸収されるんですよ」と説明してくれたおばあは、盆を持って奥へ戻って行った。おじいは、別の新聞を読んでいる。バナナ牛乳は、甘く冷たくて本当においしかった。ミキサーで作ったわけではないので、粒つぶがある。これをスプーンですくいながら、あっという間に飲み尽くしてしまった。
 私はおばあに出発する旨を告げ、この宿の門限を聞いた。今晩は梅原君らと飲むことになるはずで遅くなるからだ。
 「門限はありません、ドアも開けたまま、窓も全部開けたままで、カギもかけません。シャワーは自分であそこのスイッチを押して使ってください」と言う。そして「明日もお客様お1人ですが、明日は朝食を出します。8時でいかがですか」と説明があった。私はやっぱり魔法にかかったように何の疑問も感じることなく了解し、礼を述べて民宿を出発した。

 あらためて朝ごはんを食べよう。ちょっと歩くと海に出た。海は大きな川幅程度で向こう側は沖縄本島だ。対岸へは橋を渡る。昨晩おばあが言ったように食堂があり、すでに営業している。扉はなく開けっぴろげで、外にもオープンカフェのようにテーブルが並んでいる。
 これは「パーラー」という沖縄地方だけで許可されている飲食店の形態だと後に聞いた。本土、少なくとも東京周辺ででは、いわゆるオープンカフェを除いてこうした形の店はほとんど存在せず、あるのは「店鋪」か「屋台」だけだ。しかし、南中国や台湾、東南アジアではむしろ、こうした形態は私が最もよく見かけた。
 パーラーだけでなく、民家など一般の建物も、およそ本土とは様子が異なる。泊まっている民宿もそうだが、鉄筋コンクリート2階か3階の四角い建物で、テラスや屋上にちょっと装飾のある手すりが見える。これらも本土ではまず見られないが、やはり中国南部以南では最も一般的な形式だ。
 こうした飲食店や建物の形は、戦後にできあがったものであろうか。そうだとすれば、アメリカの統治下で現れてきたものだと思うが、誰がこの地にもたらしたのだろう。古代から南方地域と沖縄の間に交流があるとは聞いていたが、現代の交流にも興味がある。
 沖縄の民家というと「赤瓦」を思い浮かべるし、実際、街中でも見られないことはないが、思ったほどは数は多くない。街の景観の違いは、現在の本土各地の間では感じにくくなっているが、沖縄にはそれがはっきりとある。「東南アジアのようだ」という感想を持ったとしてもそれは外れではないが、やはり「ここは沖縄なのだ」と考えるべきだと、私は思う。

 さて、パーラーの外のテーブルに掛けて、お店の人に「そばできますか」と聞いた。品書きには「沖縄そば」とあったが「沖縄そばできますか」と聞かなかったところがミソだ。ちょっと“通”ぶってみたのである。
 沖縄のそばは「そば」といっても、そば粉はまったく含まれていない。「中華そば」と同様に、そばのような形状からそう呼ばれるのだろう。だが、形状で見てもやはりそばとは遠い。麺の形は細めで平ベったいうどんに見える。小麦粉にかんすいも入っているようだ。
 法律では、そば粉が入っていなければ「そば」と称することはできないからか「沖縄そば」と称しているが、現地の人は単に「そば」と呼んでいるようだ。
 一方で、沖縄には日本そば屋は少ないし、うどん屋も見かけない。ラーメン屋でさえ那覇国際通りで見るだけのようだ。そのかわり、街中にも街外れの山の上にも「そば」の看板を出している店はとても多い。
 沖縄そばを滞在中に何回か食べたが、上に載せる具はもちろん、つゆにもいろいろな種類があるようだ。この店のつゆは、豚コツでも出汁を取っているのだろう、こってりとしていてまたうまかった。小粒の唐辛子を泡盛に漬け込んだ「島とうがらし」をたっぷりかけたら、脳も身体も完全に目覚めた。

 店の目の前にある橋を渡って本島へ。それから海沿いに歩く。梅原邸兼アトリエは、彼が経営している服と小物の店「さちばるまやー」に隣接しており、それは海辺にあるので、海岸線に沿って歩けば行き当たる。
 それにしても日ざしが強烈だ。日光をさえぎるものはまったくなく、コンクリートの細道を真っ白な光にさらされながら歩く。1匹の犬が向こうからこちらにまっすぐ走って来る。野良犬だろうか。私に出会う直前で、少し進路を変えて、私の脇を過ぎて行った。行き交う人はいない。
 ようやく、それらしき建物と何度か会ったことのある彼の妻の姿が見えた。お店は小さいけれど、あたたかくやさしい雰囲気だ。スタッフの女性がいて、静かにあいさつしてくれた。家は少し高台にあり、階段のかたわらには見事なガジュマルがあり、無数の根が地面にささっている。
 梅原邸は巨大な岩を背にして建っている。梅原君は「歓迎のために草を刈っていたところです」と言って、汗をぬぐった。私も汗を拭きながら縁側に腰掛けていると、いつのまにか1人の中年男性が木の箱を持って庭に入って来て、黙ってその箱を置いた。蜜蜂の巣箱だ。別の若い男性やお店のスタッフもやってきて、たちまち庭先はにぎやかになった。
 「分蜂(ぶんぽう)」をするのだという。蜂を増やすために、群れを分けることらしい。巣箱を持ってきた男性ともう1人男性との会話は、沖縄の言葉であり、私にはまったく聞き取れない。
 いきなり蜜蜂の巣箱を持って来て庭に置くなど、都会の生活では考えられないことだが、何かごく自然の日常風景のように見えた。
 いろいろな人が、いろいろな用事があったり用事がなかったりして、ここにやって来ると梅原君はいう。そうした人の中に、沖縄の考古学研究をしている年輩の男性がいるそうだ。本業は農学博士だが、この人の話しが興味深いから一緒に聞きたいのだが、沖縄と本土を行き来しており年に数回しか会えないので期待はできない、と話した。
 その時、マングローブの横を通ってまた一人階段を上がって来た。まさにその考古学研究者であった。
(続く)