自殺予防の方法はあるか

 どうしたら自殺を防ぐことができるだろうか、といつも考えています。
 ある時、私の知人に、その方法を尋ねたら、こう答えました。
 柔道の技を使って、関節を外したり、場合によってはけがをさせたりして、体が動かないようにする、と。
 これは冗談ではありません。彼は柔道の心得がある整体師です。乱暴なようですが、自殺を防ぐ方法を考えたとき、本質のある一面をついていると思いました。
 絶対に自殺をさせたくないから、理屈はどうあれ、とにかく物理的に自殺をすることが不可能な状態にして、いくら本人が自殺を望んでもできないようにする。
 舌を噛んだらどうか、と聞くと、舌を噛めば死ねるというのは迷信だそうで、そんなことでは死ぬことは無理だとのことでした。
 自殺を防ぐということは、これくらい難しいことなのだと思います。
 人によって、自殺をする動機はさまざまですし、自殺をしようとする人の持っている性格、資質もさまざまです。だから一概には言えませんが、それでも、私の考えていることを少し述べたいと思います。
 ただし、ここで述べることは、社会的なことではありません。社会福祉、医療、教育、地域社会などでの公的なシステムとしていかに自殺を予防するか、という問題はここでは措きます。もっと直接的な、個人的な、自殺予防への考え方、あるいは自殺願望を持つ人の気持ちについて論じたいと思います。

 まず、私がいつも気になるのが、「自殺をしようとする人は命を大事にしていない」という理屈で相手をいさめる考え方です。
 「自ら命を落とそうとしている人は、自分の命を大切にしていない」と考えるのは、非常に短絡的です。「自殺を考えるくらいなら、生きることを考えなさい」などという言葉も、多くの自殺志願者のことを理解していません。
 性格の問題として(良いか悪いかではなく)、普段からあまり深刻に物事を考えない人や、人生のことを思い悩まない人、細かいことを気にしない人、他人に対して気遣いの少ない人などは、どちらかというと、自殺願望からは遠い。
 一方で、いろいろな物事をまじめすぎるくらいにいつでも深刻あるいは真剣に考え、人間関係や人生に悩みの多い人は、場合によって自殺願望を持つ可能性があります。
 これはつまり、生きることに真剣であるあまり、苦しみが多く、ついには自殺を考える可能性も出てきてしまうということです。
 そしてある程度の強さを持っている人こそが、人生の困難にもぶつかって行くので、苦しみも受けるわけです。弱さのあまり、自分の人生と真剣に向き合うことが困難な人(これも良し悪しではありません)は、かえって苦しみから遠ざかることができるのではないかと思います。
 もっといえば、自殺を考える人こそが、人生を重く考え、日々命を大切にしているのです。
 生きたい、生きていたい、しかしそれができないくらいに苦しい、だから死ぬことさえも考えてしまうのです。
 もちろん、「自殺をしようとする人は命を大事にしていない」といういさめによって、思いとどまる人もいることでしょう。しかし、やはり私は、こうした考えは、自殺願望を持つ人を理解しにくくすると考えます。
 むしろ、自殺志願者にさらに負担を強いることにもなりかねません。これについては後で述べます。
 
 「自殺したら、周囲の人はどんなにか悲しく、苦しい思いをするか」と言って思いとどまらせようとすることにも、私は限界を感じます。
 これまた、そう言うことによって、思いとどまる人もいるでしょうが、自殺をしようと考えるくらいに苦しい時には、本人はそうしたことを考える余裕は、残念ながらまったくないものです。
 これも、自殺志願者をさらに苦しめることになる可能性があると考えます。これについても後で述べます。
 しかし、実際に、近しい人が自殺してしまったことで、周囲の人がその責めを負うような心境になってしまって苦しんでいることは、時々報道されます。このことは、みんなが忘れてはならないことだとは思います。

 別のある知人に、こんなことを尋ねたこともあります。もし、金銭的な苦しみで自殺を考えている人がいたとして、その人にお金を与えたら、自殺を防ぐことができるのではないか、と。
 彼は、それを否定し、もしお金の問題が解決したとしても、別の問題を抱えるようになって自殺願望を持つだろう、と言います。
 これは、そうでない部分と当たっている部分があると思います。
 そうでない部分というのは、やっぱり切実な金銭的な悩みなら、仮定の話しですが、そのお金の問題が解決したら自殺を防ぐことができる。健康上の問題で悩んでいたら、それが解決した時点で、自殺からは遠くなる。そう思います。
 もちろん、金銭的なことでも健康上の問題でも、そう簡単に解決はしません。ただ、直接的な解決策によって、自殺を防ぐ、そういうこともあり得るとは思います。
 当たっている部分というのは、何がどうなっても、その人は自殺願望を捨てることがないだろう、という考えで、そういう人もおそらく実際にいるとは思います。
 けれども、こういうタイプの人の心の底をのぞくのは、何か非常に危ういものを感じるので、ここでは書くことも、考察することも避けて、触れないことにします。

 さて、「自分の命を大切に」といういさめにしても、「周囲の苦しみを考えて」という説得にしても、これは自殺をしようとしている人に、さらに「何かを求めている」ことになるのではないでしょうか。
 前者は、生きたいと強く望み、それがもうできないくらいに疲れ切って、自分の命を支えることもできない人に、「支えること」を迫っている。後者は、苦しみすぎて人のことはもちろん、自分のことを顧みる余裕のまったくない人に、「人のことを考えるように」と迫っている。
 一つのたとえです。今まさに、餓死寸前の人がいたとして、その人はもう一歩も動けない。一杯の粥をその人にまず飲ませなければならない。そういう状況なら、その人のところまでその粥の入った椀を持って行って、飲ませてあげるものです。「ここに粥があるから、ここまで歩いて来なさい」という人はいない。
 ただし、そういう餓死寸前の人が、自分から見えないところにいる場合には、こちらから粥を持って行って上げることはできないから、助けるのは難しくなる。餓死寸前よりもう少し手前くらいだったら、その人は、自分で人に助けを求めなければ、助からない。
 この問題もとても重要なことですが、ここでは措きます。

 自殺をしようとしている人は、苦しみに苦しんで、人に気を遣うだけ遣って、もう生きるための精神的なエネルギーはゼロです。
 そんな人に、さらに反省することを求めたり、周囲に気を遣うことを求めるのは、餓死寸前の人にさらに歩かせるのに等しいことだと、私は考えます。やはり、粥の椀を持ってその人の近くまで行って、抱き起こして、粥をそっと口の中に入れてあげなければ、助けることはできません。飢えていて、歩くことさえもできない状態であることを理解していれば、寄り添ったそういう行為ができることでしょう。
 これと同じことで、死にたいと思うほどの苦しみの中にいることを理解し、相手に寄り添って、共感することが、自殺を予防するためには大きな要素になる、と私は思います。
 しかしそれは、助ける人にとっても、大変な苦労です。しかも、なかなか相手の心の中の状況は把握できない。ある程度以上は、医療関係者や心理・精神関係の専門家に任せる必要があります。
 それでも、自分から死のうと思っている人に対してその苦しさにできる限り共感することが、自殺を防ぐ大きな第一歩である、と私は思っています。
 皆さんは、どうお考えになりますか。