僕のTOKYO1964 第1回 〜山手線巣鴨貨物駅の向こうにI子ちゃんの家〜

 山手線は、大塚駅付近では高架上を走っているが、わずか1駅先の巣鴨駅に至る途中で、台地に突入して一気に谷間になってしまう。そこから巣鴨駅を抜け、次の駒込駅の途中までは、線路が両側の道路よりもはるかに低い切り通しになる。
 駒込駅ではそのホームの中ほどの位置で、今度は線路の両側の道が急坂となって下り、線路と道路の高低が再び逆転して、線路は道路よりも高い位置を走る。だから巣鴨寄りの改札へはホームから階段を昇るが、田端寄りの改札はガード下にあってホームへは階段を上がる。
 そして線路が田端駅まで至ると、昔の荒川の氾濫原である操車場の低地が開ける。
 つまり山手線のこの付近の線路は、かつての谷端川の谷である大塚駅付近から、巣鴨駅付近の山の手である巣鴨台を通り、今度は駒込駅下のかつての谷戸川の谷を経て、さらに荒川の氾濫原の低地に至っている。その名のとおり山手線は“山の手”の指から指へ走っていることが分かる。

 私が高校卒業まで住んでいた社宅の門を出て左へ少し歩くと、山手線の巣鴨駅と駒込駅の間の切り通しに直角にぶつかる。道路からは、巣鴨駅の駒込寄りプラットホームの端がもうほとんど切れているあたりが見おろせる。
 はるか真下には細い用水路があり、ザリガニを釣ることができた。近くの六義園の池から水が流れ込んでいるために、きれいな流れになっていると、子どもの頃に聞かされた。
 就学前の私が、その切り通しの上にいる写真が残っているが、柵はまくら木を転用したものに鉄条網(子どもたちはバラ線と呼んでいた)を張ったもので、柵の下には草もたくさん生えていた。
 切り通しとはいってもその幅は広く、こちらの岸から対岸までの間には、山手線の外回り、プラットホーム、内回り、何本かの貨物線の線路、貨物線の線路の引き込み線、貨物駅のプラットホーム、砂利置き場、日本通運の倉庫や事務所などがあった。

 この貨物駅のあたりには、いつも数輛の貨車や機関車が止まっていた。無蓋車に黄緑色のカゴをかぶせた「パルプチップ車」を見たこともある。ディーゼル機関車のDD13型やもっと小さな入れ換え用小型機関車、それにデッキ付きの茶色い大型電気機関車が止まっていることもあった。
 私はそれらの鉄道車輛と貨物駅の風景を眺めるのが大好きだった。小さい頃は、もっぱらこちらの岸から対岸を眺めているだけだったが、小学生になり、少し遠出ができるようになると、巣鴨駅か駒込駅まで回って橋を渡り、対岸まで行くようになった。
 対岸は、素朴な田舎の貨物駅といった趣があり、子ども心にも魅力的な場所だった。草っぱらの斜面も社宅側の岸よりずっとゆるやかで、ある時その草の中に埋もれかけた階段を見つけて下まで降り、止まっているタンク車や有蓋車にそっと触れたこともあった。

 対岸のもう少し向こう、静かな住宅街に、小学校の同級生I子ちゃんの家があった。もし社宅のベランダから飛んで行くことができたなら、私の家からはそう遠くなかったと思うが、駅まで回って橋を渡るため、子どもの足ではちょっと遠かった。
 それでも私は、対岸まで行って貨物駅を見るのと同時に、I子ちゃんの家にもよく行くようになった。どうして、しょっちょう遊びに行くようになったのか、そのきっかけはさっぱり憶えていないが、I子ちゃんは色白でぽっちゃりとした、おとなしくてかわいい子で、私はかわいい女の子と遊ぶのが好きだった。
 男の子の友だちとたくさん遊ぶようになるのは、小学校3年になってからだ。母と6歳上の姉、母や姉の友だちら女性に囲まれて育ち、心身ともにひ弱だった私は、男の子がちょっとでも粗暴な振る舞いをするのがたまらなく恐ろしかったのだ。

 I子ちゃんの家は、ある卸商を営んでおり、敷地は広く、住居兼事務所の建物や倉庫などがあり、樹木も多く、それらを見て回るのが楽しかった。
 庭に小さな池があって、そこには大きな巻貝のオオタニシが何匹かいた。私はそれが欲しくて欲しくて、何度も「タニシちょうだいちょうだい」と言って、ねだり、とうとうもらってきてしまった。そのタニシはどこからか持って来て池に放されたもので、それをしたのはI子ちゃんのお父さんであったろう。あまりにねだるので、I子ちゃんのお父さんもしかたなく私にくれたのだと思う。
 そのタニシを家に持ち帰って、たらいに入れたところ、ある日小さな稚貝をいっぱい産んでびっくりした。

 I子ちゃんの家は縁側も広く明るく、そこで一緒に遊ぶこともあった。ミルクが出る牛のおもちゃや、逆さにするとミルクがなくなるように見えるほ乳瓶のおもちゃで遊んだ。
 縁側で遊んでいると、お父さんが事務所からこちらに来て、よく、牛乳を飲むようにI子ちゃんに勧めていた。けれどもI子ちゃんは、あまり飲みたがらなかった。私は牛乳が好きだったので、飲みたがらないI子ちゃんが不思議だったし、しょっちゅう牛乳を勧めるお父さんの態度も不思議だった。
 それから、黄色い液体の薬を飲ませてもいた。これもI子ちゃんはいやがったが、その理由は私にも分かった。私も一度、その薬をちょっとなめてみたが、ひどく渋くて酸っぱいものだったからだ。
 今思うと、あの薬は白血病の治療に関係のあった薬だったかも知れない。

 いつの頃からかI子ちゃんは学校へ来なくなり、私もI子ちゃんの家へ行かなくなった。I子ちゃんは入院してしまったのだ。何カ月か経ってからだろうか、突然学校にやって来たI子ちゃんは、ずいぶんと太っていた。校庭に姿を見せ、けれどもすぐに帰ってしまった。
 私は看護師だった母に、I子ちゃんが太っていた様子を知らせると、それは薬のせいだろうと教えてくれた。
 その後、I子ちゃんは白血病で亡くなった。
 私の両親は、私をI子ちゃんの葬儀に行かせなかった。私がショックを受けると考えてそうしたのだと、あとで聞いた。
 けれども、私は、泣いたとか、ひどく悲しかったという記憶はない。死の意味がきちんと理解できていなかったのかも知れない。
 憶えているのは、I子ちゃんが亡くなってしばらくしてから、I子ちゃんのご両親が私の家へ挨拶に来てくださったことだ。
 母が、その来訪を私に告げたが、私は自分の部屋に隠れて出なかった。私は、例えば私はがまったく知らない父の友人などが訪れて来ても、子どもながらに出て行って、きちんと挨拶をすることができたものだが、I子ちゃんのご両親のせっかくの来訪には、そうしなかった。
 母が玄関で、私が隠れてしまったことをI子ちゃんのご両親に詫びているのが聞こえた。
 
 巣鴨駅と駒込駅の間の切り通しは、今、だいぶん様子が変わってしまった。幅はそのままだが、対岸には大きなマンションが建っているし、がんじょうできれいな柵も設けられている。草もあまり生えていないだろう。
 対岸のもっと向こうの、I子ちゃんの家はまだあるだろうか。
 それを知る必要はない、と私は思う。あれらのすべて、1973年頃のことは、もうずっと昔に、彼方の岸に渡ってしまったのだから。