酒の追憶 第1回 〜焼酎の牛乳割り〜

 学生の頃、1年間ほどだったか東京北区の王子辺のコンビニエンスストアでアルバイトをしていた。
 24時間営業で酒を置いている店なので、いろいろな人が酒を買いに来た。
 朝の7時頃にいつも来ていた小柄の男性は、トリスウイスキーのポケット瓶を極まって1本買う。会計をするとすぐにそのスクリューキャップを外して、ぐっぐっ、とちょうど半分ほどを一気に飲む。そしてこう言う。
 「仕事の前に半分飲んで、終わったらあと半分飲むんだ。駄目だね」
 私が聞いていてもいなくても、必ずこうつぶやくように言って、その黒い色の小さなガラス瓶をカバンにしまって、出て行く。
 深夜から朝までの勤務は週に何日かあったが、私がこの勤務に付いていた時に必ずこの人は来ていたから、たぶん毎日来るのだろう。

 夕方には、ワンカップの日本酒を一気飲みする男性が、よく来た。むすっとした様子で、さっとお金を払うと、その場ですばやくキャップを外し、アルミのふたをむしり取って、あおって、手をおろす。まるで居合い抜きだ。早いのである。
 ぐっぐっ、とか、ごくごく、ではない。はっ、と入れる。おそらく合唱で歌うときのように喉が完全に開いているのだろう。ふたを外してから飲み終わるまで2挙動だ。

 酒を万引きする困った客もいた。ある日の午後、私が勤務に入ると店長が、今日、酒を万引きした奴を捕まえて警察に突き出した、と話した。よく店に来ている客だが、常習の疑いもあるという。特徴を聞くと、私も見知っている客だった。
 しばらくすると、驚いたことに、その客が店にやって来た。あらためて酒を買おうというのだ。たぶん、説諭か何かで済んですぐに釈放されたのだろう。
 私はびっくりして、どうしたものかと思っていると、その客は、今度は客で来ているんだから売れ、という。すると奥にいた店長が出て来て、あなたには売らない、と告げた。
 客は、アメリカなら、どんな過去があっても客は客だから、そういう場合にはビジネスとしてきちんと売るものだ、と理屈を並べた。私は、まあ、それもそうかも知れない、と納得しかけたが、店長は許さなかった。
 「ここはアメリカじゃねえ、ここは北区の王子だ!」
 と啖呵を切った。

 この店長は、その時で30歳くらいだろうか。以前は市場の仲買人をしていたところを、このコンビニエンスストアの社長に引っ張られて店長になったのだという。
 やせているが筋肉質で、はきはきと威勢が良かった。目付きはちょっと鋭くて恐い感じもしたが、バイトに対しては穏やかに接してくれていた。ただ、どこかさびしげな感じもあった。
 しかし、仕事は大変だったようだ。店長が朝7時から入って、勤務割りの関係でやむなく夜の8時くらいまで頑張って、帰ろうと思ったら、深夜勤務のバイトがどうしても来られなくて、その場にいた午後からの勤務のバイトも引き続き朝まで入ることは拒否して、しかたなく店長が24時間働いてしまった、ということも、一度や二度ではなかった。

 店長は大酒飲みであるといわれていた。いつも勤務が終わると、牛乳を1リットル買って帰る。何日かに一度は、麦焼酎を1升買って帰る。
 この麦焼酎は、とてもおいしくて、今ではよく知られているが、当時はまだ東京で麦焼酎を飲む人は多くなく、もちろん芋焼酎を飲む人はもっと少なかったが、この店長に教わって、私もこの麦焼酎が好きになった。
 店長は、麦焼酎の牛乳割りを家で飲むというのだが、その比率が半々であって、毎日、1リットルの牛乳を消費する。ということは、毎日、1リットルの焼酎を飲んでいることになる。

 勤務中に飲んでいるなんていうことはなかったし、二日酔いで仕事をしていたということもなかったように思う。けれども、相当に依存的ではあっただろう。
 ある時、店長が自分の腕を見せてくれた。赤い斑点があった。肝臓がいかれているとこうなるのだ、と店長は説明してくれた。

 店長と飲んだことがあった。一緒に働いていた後輩が店長に対して、私のことを酒好きだ、と紹介したらしく、その時は珍しく夜の11時に店長と同時に私も勤務が終わって、店長から誘われたのだ。
 店長が牛乳を買って、そうして帰ろうとしていた私を誘った。酒が強いらしいじゃないか、ちょっと寄っていこう、と。
 私は、アパートから30分くらい歩いてそこに通っていたので、終電の心配などはなかったし、学校へはあまり行っていなかったので翌日の心配もなかったし、何よりも私自身がそういう大人と飲んだことはなかったから、好奇心もあった。
 店長にしても、いつも誰と飲んでいるのか、一人で飲んでいるか分からないが、この日は、一応飲めそうだという若い男がいたから、誘ってくれたのかも知れない。

 コンビニのすぐ近くの、遅くまでやっている、白いのれんに真っ赤な字で「中華料理 湯麺 餃子」と書かれたのれんが掛かった、小さな店に入った。土間がコンクリートのむき出しだった。店長は、仕事が終わるとよくここで飲んでから帰るらしい。
 餃子をつまみに注文して、店長は日本酒を冷やのコップ酒で頼んだ。私も同じものを注文すると、店長はうれしそうだった。
 私は粋がって、店長のペースに合わせて、7杯まで飲んで、ふわふわしてきた。店長は8杯まで飲んで、勘定をしてくれた。
 店長はまったく酔った様子もなく、ふわふわしている私を、にこにこして見送ってくれた。
 彼は家に帰って、これからさらに焼酎を牛乳割りで1リットル飲むのだ、焼酎を牛乳割りで1リットル飲むのだ、となぜかそのことを何べんも思いながら私は家に向かって歩いた。
 家路の途中に飛鳥山公園があり、都電やD51が置いてある。私は一人で、これらに何度も乗ったり降りたりして遊んだ。30分で帰れるところが、家に帰った時は3時間くらい経過していた。

 私は今ときどき、西巣鴨にある大正11年創業という、やきとん屋「高木」で、焼酎の牛乳割りを飲む。
 注文すると、牛乳瓶と焼酎が入ったコップと空のコップが運ばれてくる。空のコップに焼酎と牛乳を自分の好みで割って飲むのだ。こうして焼酎の牛乳割りを飲ませる店は、非常に珍しい。
 私はたいてい、焼酎1に対して牛乳を1.5くらいの割合にして飲む。1対1にすると、ちょっと焼酎の酒精が鼻に抜ける感じがする。
 そうして、煮込み、大なんこつ、あぶら、しろ、ればー、それに箸休めに豆もやしを頼んで、油煙にまかれて飲む。

 店長は、牛乳と一緒に飲むと、体に良いんだ、と笑いながら話していた。まあ、そういう面もあるかも知れないが、あんなに飲み続けたら、牛乳も何もないだろう、と今は思う。
 店長と飲んだのは、その一度きりである。