沖縄4日間の旅 第7回最終回 〜沖縄の戦地に咲く花を見た〜

 沖縄を去る日の朝も、大音声(だいおんじょう)放送には気づかずに目覚めた。
 布団の上に寝転んだまま、窓から入ってくるさわやかな風を顔に受け、昨晩、那覇市内の小さな台湾料理屋で酔いしれたことを思い出す。シジミのニンニク醤油漬けの強烈な香りも記憶としての嗅覚に立ちのぼってくる。
 今日は沖縄の戦地を訪ねる。街(まち)、故地(こち)、基地(きち)、そして4つめの「ち」となる「戦地(せんち)」の跡に行くのだ。
 宿の食堂に降りてみると、もう一人客がいた。私よりも年配の男性で、近くに知人がいるとかでしょっちゅう南城市には来るという。私はその男性と一緒に、おばあの指示に従ってバナナ牛乳を作って飲んだ。バナナと一緒に牛乳を飲むとカルシウムの吸収がすぐれていることを、おばあはやはりこの男性に説明している。今日は客は2人だが、朝食は出ないようだ。
 勘定を済ませた。3回の朝のうち2回分は朝食がなかったので、総額から1000円安くなった。
 午後まで楽器を預かってもらうことにして、出発した。おばあは急に思い出したように「これは楽器ですか。お客さんは仕事で演奏をするのですか」と尋ねた。
 朝食は今日も、宿を出てすぐ、本島に渡る橋の手前にあるパーラーで、やっぱり沖縄そばを食べた。
 椅子に掛けて、つるんとした喉ごしの麺を飲み込み、豚肉の角煮の端と紅生姜をかじって顔を上げると、今日もまた、すばらしい快晴であることが、分かる。


 海沿いに歩いて梅原邸に到着し、今日の計画を考える。
 梅原邸のある南城市から最南端に向かうと、まず平和祈念公園に出会う。ここに「平和祈念資料館」「平和の礎(いしじ)」「平和祈念堂」「国立沖縄戦没者苑」がある。さらに国道を先に進むと、「ひめゆり平和祈念資料館」がある。
 私が梅原君に前から伝えていたのは、戦争などの悲惨な状況をつぶさに知ると、自分は精神的に耐えられなくなり平静を保てなくなる恐れがある、ということだった。
 彼はそれを考慮しつつ「これらの戦跡と資料館を全部訪れるのはそうでなくとも多くの人にとって精神的に非常に苦しい」ということと「すべてを訪れるには時間がいくらあっても足りない」旨を教えてくれた。
 彼は「資料館はひめゆり平和祈念資料館だけにして、あとは平和記念公園を訪れるだけにしたら」と提案した。今日は天気も良いし、平和記念公園の岸壁から望む海は、それがそういう場所であったとしても、すなわち多くの人が亡くなった場所であるにせよ、気持ちが少しは解放されるから、と言う。
 さらに、彼の細君はまだこれらを訪れたことがないから、一緒に行ったらどうか、そして自分は次の個展のための制作をアトリエでして待っている、とも言った。
 私はありがたいその助言にしたがって、彼の細君の妻の運転する車で、ひめゆり平和祈念資料館を訪れた。中に入ってからは、自然とそれぞれ別に展示を見ることになった。


 「ひめゆり」というのは、植物の花のひめゆりのことではない、そうだ。

==沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校は、それぞれに校友会誌がありました。一高女は「乙姫」、師範は「白百合」となづけられていました。両校が併置されることによって、校友会誌もひとつになり、両方の名前の一部を合わせて『姫百合』となりました。ひらがなで『ひめゆり』を使うようになったのは戦後です。(ひめゆり平和祈念資料館ガイドブックより)


 資料館には、5つの展示室と付属施設がある。第1展示室は「ひめゆりの青春」、第2展示室は「ひめゆりの戦場」、第3展示室は「解散命令と死の彷徨」、第4展示室は「鎮魂」、第5展示室は「回想」とテーマが付けられている。
 第4展示室には、沖縄戦で亡くなったひめゆりの学徒と教師の200名以上に及ぶ遺影が掲げられており、名前と人物像、そして死の状況が記されている。
 死の状況。そこに記されているのは亡くなった時の状況を説明する事実であり、もちろん記述者の感情などは排されている。場所や直接的な死因が簡略に淡々と記され、それがいくつもいくつも連なっている。その連続は、それを拝したものに、思考し続けることを強く迫ってくる。感情に流されず、理知をもってその事実を考えることを、繰り返し迫るのである。
 中には「状況は不明」という記述もある。学生たちは言うまでもなく非戦闘員であり、一般市民であり、学問と若い日々を謳歌していた女子学生であった。にもかかわらず、戦場に身を置いたのである。その混乱の中にあって、死の状況が不明であったことはむしろ自然であるようにも思われる。だから、かえってそれ以外の人たちの死の状況が、これだけ後世に伝えられていることに、死んだ人と死ななかった人の、どちらともの慟哭が聞こえてくるのである。
 このひめゆり平和祈念資料館にある、ひめゆりの塔の前には大きなガマ(洞窟)が今も残っているが、ここは当時、伊原第三外科壕として使われており、このガマの内部を実物大に再現したものも展示してある。
 このガマでは、アメリカ軍のガス弾攻撃によって、80余名が亡くなったそうだ。


==1945年6月末、約90日間にわたる沖縄戦は終わりました。
 激しい砲爆撃により変わり果てた地には、数十万の死体が転がっていました。
 ここ伊原の陸軍病院第三外科壕内に重なり合っていたひめゆりの少女たちの白骨、近隣の山野のあちこちに横たわっていた多くの生徒たちの屍を合祀し、翌年4月6日「ひめゆりの塔」が建てられました。(ひめゆり平和祈念資料館ガイドブックより)


 第5展示室からはガラス越しに小さな中庭が見える。ここは花園になっている。中庭の真ん中にいっぱい咲いている花たち。
 私は、外へ出て、この花園を前にして、泣いた。
 あんなに大勢が死んでしまったのに、花はいっぱい咲いている。


 梅原君の細君と合流し、平和祈念公園へ行った。海と空。
 膨大な数の石碑が並ぶ「平和の礎」。沖縄県民はもちろん、ここで亡くなったすべての日本人、そして外国人の名前も刻銘されている。すべてが短期間に亡くなった人間の名前である。
 平和記念公園から見た太平洋は、広く青い。ここでかつて激しい戦闘が行われたことが、にわかには信じられない。


 梅原邸に戻った。もうそろそろ、沖縄を離れなくてはならない。
 車で宿へ寄ってもらって楽器を受け取り、市場で島とうがらしや果物を買い、3人で昼飯を食べた。小さな食堂だった。私は刺身の定食をとった。新鮮な刺身もどんぶりの味噌汁も、本当においしかった。
 那覇空港へ送ってもらい、2010年10月6日、私の沖縄4日間の旅は、終わった。


 おわりに(2011年ホームページ初出時)
 4日目の「戦地」訪問がどうしても書けず、前回から4カ月も間が空いてしまった。
 今朝の新聞で、今日6月23日が、66回目の沖縄県「慰霊の日」であることを知り、せっつかれるように書いた。書いたけれども、書けたとはいえない。
 いずれあらためて沖縄の戦争について書こうかとも思うが、前から構想していた「僕の戦争1964」を書き始めたいと思っている。戦争が終わった1949(昭和20)年から19年後に生まれた私が“体験”した戦争についての随筆である。
 沖縄の旅は、本当に豊かなものであった。宮古島の後で沖縄本島を訪ねたいというわがままを了解してくださった世田谷区民吹奏楽団の執行部の方をはじめ団員の皆様、本島でお世話になった梅原君夫妻や友人の皆様に、あらためてお礼を申し上げたい。


 おわりに(2012年7月6日ブログ掲載時)
 この旅から2年、前回書いた時から1年、戦争のことを考えて書く、ということについては、私の状況はあまり変わっていない。
 沖縄の状況はどうだろう。きっと、食べ物は変わらずおいしくて、酒も変わらずに香りよく、歌は変わらず宙に舞っていることだろう。しかし残念ながら、基地を取り巻く状況、本土と沖縄の平和問題の関係はかえって悪くなっているのではないか。
 私にとっての沖縄も、まだ、近づいたり遠のいたりを繰り返している。本土の、東京の生まれ育ちの私にとっての沖縄が私と近くなるには、私がもっと近づかなくてはいけないのだと思う。