食ったものはいつか転生す 第1回 〜私的おでん年代記〜

 おでんが好きで、秋から春にかけて何回も作って食う。けれども子どもの頃は、家で食うおでんをうまいと思ったことはなかった。どうも、おでんが飯の菜にならなかったからである。
 今は酒の肴におでんを作る。私は家では酒を飲まないが、おでんを作った時には熱燗をやる。しかし外で飲む時に、おでんを肴にすることはない。いや、かつてはあった。
 私が作ったおでんが今は、最も旨いと思っているが、その旨いと信じているおでんを作るようになったのは、とある私鉄駅前の屋台のおでん屋でよく飲んで食うようになってからだ。


 そこで、おでんの私的年代記である。
 おでんは、幼少の私には飯の菜にならなかったが、今でもおでんを菜にして米の飯を食うことは考えられない。茶飯でおでんを食う人もあるようだが、作家の獅子文六が書いているように(種村季弘編『東京百話 天の巻』「おでん」より。原典は「獅子文六全集15」朝日新聞社・昭和43年など)「昔から、おでん屋には茶飯の用意があったが、あんなものを食っても、仕方がない」と私も思う。
 しかし、子どもの頃にいただいた隣家のおでんはうまそうだった。小学校低学年の頃に遊び友だちの彼の家におじゃまして、夕飯をごちそうになったことがあったが、この家のおでんはうちのおでんと違って茶色くなかった。ごく薄い色だった。それがうまそうだった。
 彼の母親が西日本出身だったのだろうか。それとも、父親が西日本出身で、彼の母としては東京風の茶色いおでんが食いたいけれど、夫に合わせてしぶしぶ薄い色のおでんにしていたのだろうか。
 だが、淡い色なら、さらにもっと飯の菜になりにくいような気がするが、その時はうまそうに見えた。「うまそうだった」「うまそうに見えた」だけで、どんな味であったか不思議と憶えていない。単に、隣のおでんの色はうまそうに見える、ということだろうか。
 小学校五年になって近所の年長の子どもに連れられて、巣鴨の裏町にあった食料品屋の店先でおでんを食った。おそらく、初めて外で食った商売用のおでんであろう。
 当時は、巣鴨辺でも住宅街に隣接した昔からの商店街がいくつもあり、その中に乾物、塩干物、調味料などを売る食料品店があった。
 天井の低い、面積だけは広いが薄暗く、漬け物くさい店の入り口近くに大きな四角いおでん鍋があり、そこで買い食いをすることができた。
 たぶん、近所のお母さんたちが、それこそ飯の菜に買っていくためのものだろうが、たまに子どもが小使い銭を握って買いに来ると、その場で皿に乗せて食わせてくれるのだ。
 茶色く煮えた卵を食った時の驚きは今でも憶えている。ああ、こんなにうまいものがあったのか、と。そういえばわが家のおでんには、卵が入っていなかった。
 それから何回か小遣いをもらって、昼間っから独り店先で、おでんを二つ三つ食っていたと思う。


 その後の10年ほどは、酒を飲むようになるまでおでんへの興味もなくなった。いや、飲むようになっても、どうもおでんで酒を飲むことはなかった。
 よく映画などでおでん屋で飲むシーンがあるが、酒を飲みはじめてしばらくの間そんな店は見たこともなかった。だいたい、若いうちはそんな店には行かないものである。屋台のおでん屋などはもっと近付き難かった。
 一方で、若い奴でも入れるような居酒屋にあるおでんは、何だかいろいろと種類のある肴の一つにすぎないようであって頼む気がしなかった。何となくおでんは、おでんだけを出す店で食うのが本当のような気がしていたからである。
 実際、おでん屋という店はあるが鳥の唐揚げ屋などという店はなく、鳥の唐揚げだけで飲ませる店もない(であろう)。
 だから、焼きとりや焼きとんも居酒屋の数多くの品書きの一つに過ぎない場合には、あまり頼む気がしない。


 まだ勤め人で親元から通っていた最後の頃、東京の北の方の私鉄駅前の屋台のおでん屋に思い切って入ってみた。家路の途中だった。
 最初は恐る恐るであったが、値段も良心的だし、店のおやじも「銀座あたりの屋台のおでんなんてのは値段があってないようなもんだが、ここは明朗会計だ」と言っていた。
 ただ、行くのはたいてい終電くらいで、駅の階段を降りて小さなごみごみしたロータリーの正面に止めてある屋台に首を突っ込むと、ほとんど種がないこともあった。そんな時は鍋の底に出汁がらとなった煮干が見え、あさりも殻ごとたくさん沈んでいたのを目撃した。
 私はおやじに頼み込んで、その煮干しとあさりを肴に飲ませてもらったことあった。
 酒はたいてい、ぬる燗からやや熱燗、そして熱燗へとだんだん熱くして3杯くらいをコップで飲んだろうか。アルミの、燗を付けるおでん屋独特の、何というのかあの器に一升瓶から酒を入れて、それを大きな四角いおでん鍋の内側に引っ掛けて熱いつゆの中へ浸けて、そうして燗が付いたら、小皿の上へ置いた厚手で小振りのガラスのコップへ注ぐ。
 私は酒を飲むとあまり肴を口へ運ばない方なので、おでんも、がんもどき、卵、何か練り物を一つか二つくらいだろうか、それで、間合いを計りながら、飲む。
 燗をしてもらってからあまり待つことがなかった。なぜなら、ほとんどずっとそのアルミの容器に酒が入っているからである。そして燗が付き過ぎると、おやじは自分で飲んでしまう。


 しかしおやじは、酔っている様子はなかった。
 愛想も良く、しゃべりすぎるでもなく、感じの良いおやじだったが、よく見ると目付きはものすごく鋭かった。
 酔客がおやじにからむと「ああ、そうだ、そうだ」と言って適当にいなしていたが、目だけは恐ろしかった。いつだったか酔って勘定を払わずに席を立った客を追い掛けた時の動作は、実に機敏であった。
 どこかのお客にこんなことを話していたこともあった。「俺の兄貴は陸軍中野学校出身だから恐かったんだ」と。中野学校は、旧陸軍のスパイ養成の秘密機関だ。
 しかし私には、このおやじ自身が中野学校出身なのではないかと思われた。それくらいおやじの目付きは鋭く、いざという時の動きは敏捷であった。
 それでもここのおでんがうまくてひと頃はよく通ったが、このおやじとはほとんど話したことはなかった。あの屋台では何だか誰ともしゃべりたくなくて黙って飲んでいた。それが心地良かった。
 もう二十年近く前のことだから、このおやじも存命なら相当な歳だろう。あの駅前にあの屋台はもうあるまい。
 それで今では、出汁ににぼしや昆布だけでなく、あさりを使ったおでんを自分で作って、自分で燗をして、飲んでいるのである。