酒の追憶 第2回 〜パイカルと呼ばれた酒〜

 中国の酒というと、たいていはいわゆる紹興酒を思い浮かべるのではないかと思う。紹興酒は、中国の酒の中で「黄酒(ホワンチュウ)」に分類されるもので、米を原料とした黄色というよりは茶色をしている醸造酒で、華中から華南にかけて醸造され消費されている。この黄酒の中に、一種の銘柄として「紹興酒」や「老酒(ラオチュウ)」がある。
 私が留学したり旅行で滞在した北京にはこの黄酒は、ない。少なくとも、私がいた1990年代初頭はそうであった。
 料理屋にも置いていないし店でも売っていない。たぶん当時の北京の人たちは、紹興酒だの老酒だのは飲んだことも見たこともないし、そもそも知らないのではないかとさえ思う。
 では、北京ではどんな中国酒を飲んでいるかというと、伝統的には「白酒(バイチュウ)」である。北京など華北や東北では中国酒ならもっぱらこのバイチュウだ。
 バイチュウは高粱(コーリャン)を原料とした蒸留酒で透き通っている。黄酒は醸造酒であるからアルコール度数は葡萄酒や日本酒とそう変わらないが、バイチュウは蒸留酒であるから焼酎、泡盛ウオッカ、ジン、ウイスキーなどと同様にアルコール度数は高い。バイチュウの中でも度数の高いものは、65度くらいあったと思う。
 バイチュウの最も有名なブランドは「茅台酒(マオタイチュウ)」で、中国で国賓を接待する場面でよく見られる。もちろん大変に高価で一般庶民には手が出ない。
 庶民的なブランドの一つは、北京では「二鍋頭(アルゴウトウ)」である。ポケット瓶、小瓶、中くらいの瓶などの種類があったが、小瓶は本当に値段が安く蓋が王冠になっていた。
 二鍋頭は最近は日本でも飲むことができるようになった。池袋あたりの“新華僑”向け中国料理店にはバイチュウが置いてあり、たいていは二鍋頭だ。だが、当時北京で見かけたものよりはだいぶ高級なものだと思う。


 現代の多くの日本人が中国酒というと紹興酒などの黄酒を思い浮かべるのと反対に、戦中派世代は中国酒というと、このバイチュウを思い浮かべるのではないか。
 それは戦前戦中、中国にいた日本人の多くは中国の東北地方、いわゆる旧満州と、華北にいたため、バイチュウに親しむ機会があったからだと思う。
 戦中派の人たちは、バイチュウとは呼ばずに、たいていはパイカルとかパイカルチュウと呼んでいたようだ。私の父は終戦間際になって旧満州ハルビンに渡って戦後引き揚げてきたが、パイカルと呼んでいた。
 森繁久彌は以前にテレビ番組の中で、満州に慰問で滞在していた頃の古今亭志ん生を懐かしみながらやはり「パイカルチュウ」と言っていた。「これは向こうの酒で、パイカルチュウと言うんですが、非常に強い酒で、志ん生さんは、これをガブガブ飲んでは寝てばかりで、なかなかお仕事をなさらないんですなあ」(NHK特集『びんぼう一代 〜五代目古今亭志ん生〜』1981年放送)。
 『ルパン三世』には「魔術師と呼ばれた男」として、パイカルと呼ばれた男が登場した。パイカルが強い酒であり、ちょっと正体不明のような怪しげな雰囲気があることからの命名だろうか。


 私は留学中もよく酒を飲んだ。飲まないで勉強している人はたくさんいたが、私は勉強せずによく飲んだ。飲まないけれども、勉強もしないで遊んでいる、という人はいなかった。遊ぶ場所も遊ぶ道具もなかったからだ。
 それはともかく、私にはちょうどうまく飲める酒が北京にはなかった。もともとビールはあまり飲まない。もう少しアルコール度数が高い方が良いが、そうなるとバイチュウということになる。
 だが、バイチュウはあまりにもにおいが強い。もちろん、そのにおいがこの酒の魅力なのだが、私は苦手だった。特に二鍋頭の安いやつがにおいが強かったのかも知れないし、それは上等でなかったために、においもあまり上等でなかったのかも知れない。飛行機に持ち込んで瓶が割れると、機内はパニックになると言われていた。
 それから、バイチュウはどうも奇妙な酔い方をした。飲み過ぎて宿酔いになると、頭痛や吐き気はそれほどでもないのに、どうしたことか足腰がまったく立たなくなる。これが不気味であった。
 宿舎の自分の部屋で宴会をした翌朝は、部屋の中はバイチュウのすさまじいにおいで満ちあふれていた。
 コップの中に残っているバイチュウ、蓋の開いた瓶の中に残っているバイチュウ、テーブルの上にこぼれているバイチュウがそれぞれににおいを発する。ひどい時には、酔って誰かが瓶をコンクリートの床に落として、そっくりこぼれ出たバイチュウがにおいを発することもある。そのにおいに囲まれながら、宿酔いで、足腰が動かないのである。


 さて、自分がバイチュウを飲んでいる場面でとりわけ思い出すのは、厳冬の夜の屋台店である。
 私が漢語進修生として留学していたのは北京の中央戯劇学院という学校で、北京の中心街の裏手にある胡同(フートン=古くからの庶民の街)の中にあった。住んでいたのは、構内にある留学生楼である。当時は外国人の居住は厳しく制限されていて、好き勝手に街に住むことはできなかったし住む場所もなかった。
 この学校から胡同の奥へ奥へと入って行くと、突然、大きな池の端へ出る。「前海(チェンハイ)」という。
 北京には、中心部を南北に渡って大きな池というか小さな湖が、途中でいくつも細くくびれながら連なっている。南海、中海、北海、前海、后海、西海などとそれぞれのふくらみに名前が付いている。
 あれは1990年の12月頃だっただろうか、夜、留学生で若く知識人のY君と、前海のほどりに出ている屋台店に行って飲もうということになった。
 Y君はともかく、私は留学半年で、もう日本へ帰りたくなっていた。それはそうだろう、はっきりとした目的もなくやってきたのだから。一応名目としては、天安門事件直後の北京を見てみたい。その様子を肌で感じながら中国語を勉強したい、ということであったが、自分にも周囲にも半分は嘘をついていてそう言っていたのだ。本当は、日本で社会人になる覚悟がなかったのである。
 そんな何とも浮かない気持ちだったから、厳冬期の夜にすっかり凍り付いた湖面を見ながら、屋台で飲むという投げやりな感じが好ましかった。


 昼間は、スケートやそり遊びをする人たちでにぎわっている池の端も、夜は誰もいない。北京はどこでも、いや当時の中国はどこでもそうだったように外灯は数が少なく、一つひとつの灯火はとても暗い。
 屋台店といっても車輪が付いた移動式のものではなく、固定の店舗だが飲食をするスペースは屋内にはなく、外に卓と椅子が並んでいる店だ。そんな店が、2軒くらい開いていて、凍り付いた池に向かって黄色い灯りを放り出していた。
 入った店は、小さな砂鍋(土鍋)で臓物の煮込みを食わせる店だった。椅子に座ると、すぐに二鍋頭の瓶と絵柄のはげたプラスチックのコップが2つ、それに沸騰した鍋が運ばれて来た。
 それにしても、すさまじい寒さだ。
 綿の入ったズボンと上着を着けているが、地面から冷気がとめどなく伝わってくる。足を交互に踏みならしていないと耐えられない。Y君も同じようにしている。
 二鍋頭をお互い勝手に注ぎ、くっと少しだけ喉の奥へ流し込んで、湯気を吹き上げている臓物を口に入れる。薄味だが、うまい。また飲んで食う。それを繰り返す。地団駄を踏むような足の動きは、止まりそうにない。
 それにしても、馬鹿みたいだ。
 足踏みしながら強い香りのバイチュウを飲んでいる俺は、馬鹿みたいだ。俺に付き合っているYも、馬鹿みたいだ。こんな俺たちにバイチュウと煮込みを出している店の奴も、馬鹿みたいだ。クリスマスの装飾みたいにしか光らない外灯も、馬鹿みたいだ。こんなに凍っている前海も、馬鹿みたいだ。真冬の北京の夜も、馬鹿みたいだ。バイチュウをパイカルと呼んでいた、今頃東京の練馬の高層階の一室にいるだろう、自分の父親も、馬鹿みたいだ。その父と一緒に、テレビでも見ているだろう母も、馬鹿みたいだ。日本で働いている友だちも、みんな馬鹿みたいだ。
 馬鹿みたいだと心の中で言って甘えながら、背をこごめて座り、左手をポケットに入れたまま、飲んで食っている20年前の私を、少し離れたところから見ている人物がいる。今の私だ。私は寂しいような、あきれたような、人に言えないような気持ちで、あの時の私を今、見ている。