旅のそぞろ神に引かれて 第1回 〜幽霊よ9時間だけ滞在させてくれ〜

 私は幽霊といったものを必ずしも信じているわけではない。いるのかいないのか、私には分からない。しかし、幽霊とか霊魂が存在していたらおもしろい、とは思う。
 あれは、吹奏楽の仲間とマレーシアでの交歓演奏会を終えて、現地解散した後に、一人でタイのバンコクへ行った時のことだ。
 この有志による演奏旅行は、マレーシアのクアラルンプール集合解散というもので、日程の核になる部分以外は「勝手にどうぞ」ということで、私の性に合っていたし、一緒に行った仲間たちの性にも至極合っていたようである。
 私はかねがね、マレー半島縦断の国際列車の旅をやってみたかったので、これを良い機会と捉えて、シンガポールに降り立ち、演奏会に向かい、解散後に一人でバンコクへ行く列車に乗った。
 バンコクで2泊の予定だったが、格安航空券の関係から帰りの飛行機が早朝の出発で、空港には午前4時過ぎにはいなくてはならないということだった。
 バンコクの中心街のホテルにいたのでは、その時間に空港にたどり着けない可能性が大きかったので、当時のドンムアン空港に近い安ホテルを、日本で探して予約しておいた。
 中心街で1泊して、楽器と、ステージ衣装などを含めたとてつもなく重い荷物を持って、昔の日本の長距離列車のようなオンボロの客車に乗って、郊外の空港近くの駅に降り立ち、タクシーに少し乗って、午後、ようやくそのホテルにたどり着いた。

 ホテルの周辺には荒れ地が広がっており、倉庫か工場がいくつか見えるだけで、人間の生活感がまるでない。幹線道路が1本あるが、ホコリを立てながらトラックなどが走り過ぎるばかりである。
 少し歩くと、ぽつんと団地があり、わずかに商店があるが、いずれにしてもバンコク中心街の、あの猥雑でしかし温かみのある街並とはだいぶ違う。
 明日は帰国するとはいうものの、仲間たちとも別れ、何だか寂しいような気持ちになって、ホテルに入った。鉄筋コンクリートだが、2階建てくらいの小さな建物で、フロントには係が1人いるくらいで、あまり人の気配がしない。
 案内されたのは、1階の部屋であった。
 ドアを開けて、部屋を見たとたん、いや〜な気持ちになった。部屋はかなり広いし、建物の古びた外観のわりには室内はわりあいきれいだ。大きな窓もある。けれども、何か、いや〜な気持ちになった。
 窓の外は、すぐに塀があり、光は入るものの、眺望はまったくない。外の音もホテル内の音も、不思議とほとんどまったく聞こえてこない。塀も、部屋の壁も、薄い青緑色のペンキでべったりと塗られている。この色が何か、とても冷たい感じを与えているのだろう、とも思われた。実際に部屋は、冷房のせいだけでなく、ひんやりした感じがした。
 とにかく中に入ってドアを閉め、施錠し、重い荷物をどさっと降ろし、旅行者なら誰でもそうするように、まずはバスルームをのぞいた。東南アジアの安いホテルならどこにでもありそうな、ごく普通の狭いバスルームで、小さなバスタブがある。
 バスタブのビニールのシャワーカーテンはなぜか3分の2ほど閉じられている。そして開いた部分に、裸でひざを抱えて、背中を向けて座っている東洋人の男性のまぼろしのような姿を、私は見た、ような気がした。
 「ような気がした」というのは、見た途端にその姿が消えてしまったとか、見た途端に私が気を失ったとか、ではなく、瞬間的に頭の中にそういう画が浮んだのである。
 「ありゃりゃー、どうも変な部屋に当たったなあ」と思った。
 いったん、体を引いて、バスルームから離れて、対策を考えた。あんな画が思い浮かんだ原因は、分からん。部屋を換えてもらう元気もない。シャワーはどうしても使いたい。早朝の3時にはこの部屋を出る。
 そこで、日が沈まないうちに、がんばってシャワーを浴びる。荷物をすっかり整理して、時間をかけて晩飯を食いに出て、帰って、3、4時間寝て、出る。
 そして、私は心の中で、バスルームの住人に話し掛けた。「これからシャワーをさっと浴びて、後は出掛けてしまう。帰ってから3、4時間寝て、もう出て行く。だから、お互いに干渉するのはよそうじゃないか。できるだけ邪魔はしないから、こちらにも何もしないでくれ。そうしたらもう二度と会うこともない」と。
 テレビをつけて、ボリュームを上げて、バスルームに入ってドアを開け放し、勢い良くシャワーカーテンを開けた。今度は妙な画は思い浮かばなかった。
 シャワーカーテンを開けたまま、シャワーを浴びた。浴びている間は、視覚も聴覚も鈍くなるのが恐くて、せっけんが目に入って痛くてもできるだけ目を開けて、ひんぱんにシャワーを止めた。シャワーのカランをひねって止めるたびに、ねばっこく跳ねるようなタイ語のテレビの音声が聞こえてきた。
 シャワールームを出て、荷物を整理して、飛び出すように街へ向かった。

 団地の一角の食堂も、なんだかもの寂しく感じた。麺とコーラを注文して、食べ終わっても30分も経っていない。ホテルへ帰りたくない。狭い団地の街を歩いたが、何もおもしろくない。
 あきらめて、ホテルへ戻った。さきほどと変わらぬ冷え冷えとした部屋だ。ただ、前ほどは「いや〜な気持ち」にはならなかった。
 バスルームの明かりをつけて、開けたままにして、落ち着かない長い時間を過ごし、ベッドへ入ってもさっぱり眠れぬままようやく午前に3時になって、部屋を出た。
 いつか、心身ともに、とても健康な状態で、あのホテルのあの部屋を訪ねたら、どんな気持ちになるだろうか。しかし、あそこへ行くことはもう二度とないだろう。バスルームの住人との約束があるからである。