音楽の力を信じて 第6回 〜旅と音楽〜

 旅をする時に、音楽を携行するだろうか。私は、何回か持って行ったことがある。旅行中、何か一つだけCDやテープを持って行くのだが、それだけを旅のあいだ中ずっと聴いていると、旅の場所や状況とその音楽の間に何の関連性がなくとも、いつの間にか両者が不可分な関係になってしまうのである。
 旅は、非日常の最たるものであるから、旅の間に入って来る情報は限定的で鮮明である。そのため、旅の間に聴き続けていた音楽と旅の心象風景が強烈に結びついてしまう。旅から帰って、日常に戻ってから、その音楽を聴くと突然鮮明に以前の旅を思い出す。そんな経験はおありだろうか。

 十数年前に、中国の東北地方を旅した。北京にしばらく滞在していた期間を含めて一カ月くらいの長旅であった。中国東北地方は、かつて満州と呼ばれていた場所で、私は個人的にある思い入れもあって、以前から旅をしてみたいと考えていた。
 寒い地方には寒い季節に行くと、その土地のより特徴的な姿を見ることができるだろう、という思いもあって、最も寒い時季にわざわざ渡航した。
 まず北京に入ってしばらく滞在し、北京在住の旧友らと旧交をあたためてから、列車の切符を入手して、一人 ハルビンへ向けて出発したのは、ちょうど旧正月に突入するかしないかの日であった。
 中国では、太陽暦の一月一日の正月はそれほど騒がないが、春節と呼ばれる旧正月は盛大に祝って帰省のために民族大移動が起こる。一方で商店などは軒並みの休業となる。また、香港あたりの学生などはこの休みを利用して中国大陸各地へ出向くようだ。私が乗った寝台列車にも香港からとおぼしき学生たちが乗っていたのを憶えている。

 しかし、憶えているというより文字どおり骨身に沁み入ったのは、やはりその寒さである。北京も寒かったが、列車に二日間ほど乗りっぱなしで到着したハルビンは、これまでに経験したことのない酷寒であった。
 街の中に気温の表示がされていた。その日の最高気温は零下十六度、最低気温は零下三十八度であった。雪は降らないが、霧が凍結したような細かい白い粉末が絶えず上から下へゆっくり動いている。三十分も屋外を歩いていると、あれほど着ぶくれているのに、どこでもいいから屋内に入って、しばらく体を温めなければ、とても耐えられない。
 ハルビンの街を流れる大河である松花江は、全面凍結して、その川面をトラックや馬車が縦横に行き交う。川に掛かる長い鉄橋の上を、ハルビンよりもさらに北へ向う大型の蒸気機関車が、車体の上からも脇からも、ものすごい量の煙と蒸気を噴出して、凍った鉄路の上を滑って行く。
 私は、土手から橋のたもとへ昇って、鉄橋の横に付いている歩行者用の通路を少し歩いてみた。そして、機関車の写真を撮ろうとカメラを構えていたら、耳当てと赤い星章のついた軍帽をかぶり、深緑色の厚い軍用外套を着て、銃剣付きの小銃を構えた人民解放軍の兵士に止められた。鉄橋や駅などは軍事的にも要衝であるし、ここはロシアにも通じる場所なので警戒が厳しいのである。私は縮こまった体をさらに固くして、あわてて鉄橋から離れた。

 ハルビンからは長春へ列車で南下し、さらに遼東半島の大連へ向かった。ハルビンあたりに真冬に滞在すると、やはり中国東北地方に位置する大連ですら、暖かく感じると聞いたことがあったが、本当にその通りであった。そして北京が恋しくなった。いずれにしても北京に戻って、またしばらく滞在して帰国する計画であった。
 大連から北京へは、船で戻ろうと急に思いつき、大連港で幸運にも客船の切符が入手できた。一昼夜かけて渤海を横断し、天津に近い塘沽(タンクー)という港に上陸して、そこからはバスで半日かけて、天津を横目で見て、北京へ戻った。
 それでも、しばらく滞在するうちに、やっぱり北京もほとんど氷点下であるので、寒く感じるようになった。ハルビン長春では、春節で食堂が休みのため、私は安ホテルで一人寂しく、方便麺(インスタントラーメン)やぼそぼその麺包(パン)ばかりを食べていたので、北京で旧友らと食べた羊のしゃぶしゃぶは本当にうまかった。

 この旅のあいだ中、私が聴いていた音楽はレゲエである。帰国後すぐに、学生時代の仲間が趣味でやっているレゲエのバンドで、ちょっとだけトロンボーンを吹かせてもらうことになっていて、しかしあまり練習時間がなかったので、旅のあいだ中ずっとそのデモテープを聴いていたのである。
 だから私は、今でもふと街中や店などで、ジャマイカの熱いリズムと暑い響きを聴くと、真っ白に凍結した松花江と外套の兵隊を思い出すし、ボブ・マーリージミー・クリフのカリビアンで情熱的な声を聴くと、中国吉林省の冬を疾走する列車の、がちんがちんに凍り付いたガラス窓が、すぐ目に浮かんでくるのである。
(二〇〇四年初出)