3月10日 母が体験した東京大空襲

私の戦争1964 第2回 〜3月10日 母が体験した東京大空襲

 私の母が子ども時代を過ごしたのは、現在の墨田区向島付近、戦前の向島区寺島町界隈であった。
 大正時代、おそらく関東大震災後の復興を期に、会津から出て来た私の祖父と、同じく会津から出て来た祖母との間に生まれた。
 祖父は電気の専門学校、祖母は看護学校を卒業しており、震災後から昭和初期にかけて大いに活躍の場があったことだろうと思う。
 実際、祖父は当時のその界隈では珍しく背広を着て丸の内まで通勤していたそうで、母が長女、その下に男の子4人の子どもたちは、それほどの不自由もなく暮らしていたようである。
 休日には着飾って、浅草へ遊びに行ったとも聞いた。ターザンの映画を観て、松屋デパートの食堂で食事をするのが大きな楽しみであったそうだ。

 そうした生活は、太平洋戦争末期の1945年3月10日未明、東京大空襲ですべて失われた。
 これは、母から繰り返し聞いた話しである。

 母は12歳、一番下の弟を祖母が背負い、下から2番目の弟の手を母が引き、長男と次男と6人で逃げ惑った。祖父は出張で福島に行っており、留守であった。
 夜半の空襲警報に続いて、ヒューッ、ヒューッという音とともに、ものすごい数の焼夷弾が降ってきた。母は今でも打ち上げ花火のヒューッという音を聞くと、空襲を思い出して怖くなるという。
 焼夷弾は爆発する爆弾ではなく、爆撃機から離れると収束していた細長い棒状のものが、空中でばらばらになり、地上に落下して周囲に強燃性の油脂を振りまき、猛烈に炎上する爆弾である。雨のように無数に降り注ぎ、一般市民や市街地を狙った無差別爆撃に最も適した殺人兵器である。
 
 6人が家を出ると、あたりはどんどん火に包まれ、火の粉が舞っていた。路地には逃げようとする人がいっぱいだった。
 その時、母の一家は、混乱の中で近所の顔見知りのおばあさんに出会った。その人は白装束に身を固め、白足袋に草履、それに杖を持っていた。
 当時、多くの女の人はもんぺと防空頭巾、男の人は国民服に戦闘帽か鉄カブト(ヘルメット)という姿であった。それは、その頃毎晩のように行われる空襲に備えていつでも逃げ出せるように、枕元に用意してあった、あるいは着たまま寝ていた服装である。
 しかし、この老婦人が枕元に用意していたのは、これらの防空と非難のための服装ではなく、覚悟の上での「死装束」だったのだ。声を掛けると「これから死出の旅路です」ともの静かに言って、人混みと猛火の中に消えて行った。
 家の裏に変電所と空き地があり、そこに大きな防空壕が掘ってあった。母たち6人はまずそこへ逃げ込もうとしたが、中はすでに人がいっぱいで、入ることができない。やむなく、その場を離れた。母が後に人から聞いたところでは、そこに入った人は全員が蒸し焼きになって死亡したそうである。

 母たちは、お互いに離れないようにしながら、逃げて逃げて、運河に飛び込んだ。
 その運河の名を母は小名木川だと記憶している。向島から猛火の中を南下しながら何とか途中で離ればなれになることもなく、6人は水の中に入り、陸上の火災からはのがれることができた。
 祖母は、看護師という戦前の職業婦人であり、人一倍気丈だったというが、そのおかげもあったかもしれない。
 けれども上からはものすごい火の粉が降り注いでくる。すると蒲団が1枚流れてきた。これをつかまえて、この下に全員が入った。
 だが蒲団をかぶっていても、猛火の熱が伝わってきて大変な熱さになり息苦しくなるため、時々、蒲団を上げて、しかし、上げるとおびただしい火の粉が降り注ぐので、またかぶり、を繰り返していた。
 しばらくすると、見知らぬ年配の婦人が「入れてください」と近づいてきた。祖母がどうぞと言い、その婦人も一緒に蒲団をかぶった。
 朝まで、川の中で蒲団を上げたりかぶったりして、ようやく空襲が終わり、地上に燃える物がすべてなくなって鎮火した。
 蒲団を上げてみると、その婦人は亡くなっていた。

 祖母と母、弟4人は焼け出されて、福島へ向かうことに決めた。しかし、祖父といつどこで会えるか分からない。祖父が福島から戻って来ても、家も周囲もすべて焼けたような状況では、家があった位置もはっきり分からない。連絡手段もなく、止むを得ず6人は上野から列車に乗った。
 そして、避難民や疎開者でごったがえす列車の中で、まったく偶然に皆は祖父と会ったのである。空襲の報を聞き、慌てて東京へ戻って来た祖父は、あまりの惨状と混乱になすすべもなく、再び福島方面へ向かう列車に乗って、それでも家族を捜していたのだった。
 こうして私の母の一家は、財産はすべて失ったものの家族はみんな生き延びて戦後を迎えることができた。これは極めて幸運なことであったともいえるだろう。なぜならこの空襲では、たった一晩、わずか2時間あまりの空襲によって、何の罪もない民間人が10万人も亡くなっているからである。

 総武線亀戸駅に近いガード下のコンクリートに、戦後しばらくたってからも、積み重なって焼死したたくさんの人の“痕跡”がしみ込んで真っ黒になっていたのを、母は憶えている。現在も国道14号線から総武線のガード下をくぐる道がいくつかそのまま残っているが、その中のどれかなのだろうと、そのあたりを通るたびに私は思う。
 私は、まぎれもないこの無差別爆撃、大虐殺に、大きな憤りを感じる。
 この東京大空襲は、どこか遠い外国のできごとではなく、昔の戦国時代のできことでももちろんなく、私は生まれる19年前のできごとであり、この猛火の中を逃げ惑ったのは、私の母なのである。
 この無差別爆撃の計画・指揮をしたアメリカのルメイ将軍が、戦後、日本政府から外国人としては極めて稀な勲一等旭日大授章を受けたことは、またあらためて記したい。