僕のTOKYO1964 〜貨物列車のでこぼことともに消えたもの〜

 「長き長き春暁の貨車なつかしき」。これは、加藤楸邨という人の句だそうで、中学校だったか高校だったかの国語の教科書に載っていた。
 物心ついた時分から大学に入るまで、私は東京の駒込に住んでいた。そこは父の会社の社宅で、門を出て左に百メートルほど歩くと、切り通しにぶつかる。その底に山手線の線路があり、ちょうど巣鴨駅のプラットーホームが駒込寄りの端で切れるあたりである。切り通しには、山手線の線路のほかに、貨物線の線路、それに小さな貨物駅の引き込み線もあった。
 社宅の周囲は静かな住宅地だったが、学校や企業の運動場が隣接してあり、昼間はそこからの喚声が聞こえてきた。江戸時代には大名の下屋敷が集中していた土地だったものが、明治維新後に官民に払い下げられ、その土地が、学校、大企業の社宅、官舎になっていたから、夜は静かだった。
 そして風のない晩春の明け方など、山手線の始発が通る前、私は布団の中で貨物列車のいくつとも知れない鋼鉄の車輪が線路を転がり行く音を、ずっと聞いていた。
 だから、冒頭の句を見た時には、ああ本当にそうなのだ、そうか春暁というのか、そしてあの明け方の貨物列車の音を聞いた気持ちを「懐かしい」と表現するのか、と思った。同時に、この見も知らぬ句の作者が、私のそうした気持ちと極めて似た感情を抱いていたことに驚いた。
 小さい頃は、切り通しの上からそうした貨物列車を眺めるのが好きだったし、少し大きくなってからは、離れた橋を回り、貨物駅へこっそりと降りて、数輛だけ止まっている貨車や入れ換え用のディーゼル機関車に触れたこともあった。
 社宅の裏側に線路の引き込み線が来ている夢を見たことがある。たぶん小学校の低学年の頃だろうが、たった一度だけ見たその夢は強烈で、今でも忘れることができない。
 当時その社宅の表側はコンクリートの地面で植え込みなどがあり、裏は草の生えた地面で砂場や遊具があった。夢ではこの草地に遊具はなく、引き込み線が三本くらい敷かれていた。地続きの隣の社宅にまで線路は延びており、そこは砂利が敷かれ客車が止まっていた。好きな貨車ではなく大きな客車だったのは、夢を見させる無意識が、より強い衝撃を欲した結果なのかもしれない。
 自転車で友だちと遠出ができるようになり、田端駅の操車場へ行った時の感激もよく憶えている。数えきれないほどの貨車が幾重にも並んでいて、自転車を降りた私たちは、それらを線路と同じ高さから眺めたのである。
 そうした貨車は、箱形のもの、屋根のないもの、タンクを載せたものなど形も大きさもさまざな国鉄時代の貨車であった。それらの貨車の連なりは、どこまでもでこぼこしていた。色も黒色や褐色ばかりで、たまに緑色があってもそれは夏草のような色をしていた。そしてどの貨車にも光沢はなかった。
 やがて、私は貨車への興味を失い、気がついたら、すべてコンテナ車ばかりになっていた。形は統一され、あのでこぼこはなくなった。
 効率化したことで私たちの生活は便利になった。けれども、でこぼこが生む陰翳や暗い色は、私たちの身体を隠してくれる。ざらざとしたものは手を触れてつかまりやすい。そうしたところから得られる安心感も失われてしまった。