心と脳と体のこと 〜動物性脂肪の過剰摂取〜

 動物性脂肪、とりわけ陸上動物の脂肪は、古今東西を問わず人類にとって強い嗜好のある食べ物であったろう。
 かつて人間の摂取カロリーは総じて少なく、地域によっては常に飢饉の危機にさらされていれば、高カロリーの動物性脂肪は、自然と人間の最も好む食物になっただろうことが想像される。
 しかし、野生動物にしても、やがて家畜化された動物にしても、昔は簡単には手に入らなかった。ヨーロッパでも、バターやラードなどは特権階級が独占していたようだ。
 日本では、近世まで仏教信仰を理由にほ乳類の肉食は禁忌とされていた。もっとも、江戸時代には大名などの特権階級は「養生食い」と称して逐次動物性脂肪は食べていたようで、むしろ農民が農耕用の使役動物である牛や馬を食べてしまわないよう、信仰を理由にしていた面もあったらしい。
 長年、ごくわずかの動物性脂肪しか摂取していなかった人類が、急激に脂肪を過剰に摂取するとどうなるかというのは、アメリカの植民地となった太平洋の島々に住む人々の肥満状態を見れば明らかだ。
 かつて長寿地域として知られていた沖縄は、戦後にアメリカから入って来た「脂肪過剰摂取文化」の影響が近年になって出始め、生活習慣病が広がっているといわれている。
 私のように、高度経済成長期に東京で子ども時代を送った世代も、動物性脂肪を含む食事を積極的に取っていた。それは、戦中戦後の栄養不足の記憶が大人たちに濃厚に残っていたこともあるし、昭和四十年代前半であれば、つい先年まで栄養状態が良くない子どももいたことだろう。
 小学校の時の栄養に関する副読本に「△△君はやせているけれど、○○君は太っています。○○君は肉やバターをよく食べています。みなさんも○○君のような食事を心がけましょう」といった内容があったことを覚えている。
 また、給食でも家でも、パンにはマーガリンを塗るのが当たり前であった。バターの時もあったが、安価なマーガリンをよく使っていた。マーガリンは植物性の油脂だが、かつては「人造バター」と呼ばれており、戦後になって日本でも普及した。現在は、日常の食事の中で脂肪分をいくらでも摂取することができるから、むしろ脂肪分の過剰摂取を控えようと考えている人にとっては、わざわざパンに油を塗って食べるなどということは、違和感のあることだ。
 戦前の質素な食事、戦中戦後の飢餓的状態から、戦後十数年で栄養状態は改善し、現在では過剰な脂肪摂取、とりわけ畜肉などの動物性脂肪の過剰摂取が健康のうえで大きな問題になってしまった。
 日本政府は、生活習慣病による医療費の増大を防ぐためにも、動物性脂肪の過剰摂取を控えるよう、さまざまな機会に呼びかけている。
 しかし、30代前半くらいまでの若い人たちの中には、そうした問題にあまり関心がない人もいるのではないか。私もかつてそうだったし、今でも、動物性脂肪の過剰摂取の問題は、知ってはいてもその嗜好になかなか抗えない。
 アメリカでは、貧困層がファストフードを盛んに利用するため、そうした人たちの生活習慣病が問題になっている。野菜類を豊富に含むバランスの良い食事は、現代の先進国や都市部ではむしろお金がかかる。産業として大量に生産して製造経費を抑えられる畜肉を使った食品はむしろ安価だ。そうした畜肉を使った食事がファストフードの大半で、貧困層はファストフードを好むと好まざるとにかかわらず、日常的に利用する。
 日本では、安価で動物性脂肪を過剰摂取してしまう食物の代表は、ラーメンだ。
 ラーメンは、かつても比較的高カロリーの食べ物ではあったけれど、二十年くらい前から動物性脂肪を多量に使ったものが増えて、非常な高カロリー食物になった。
 かつての日本で、高カロリーな食べ物は、うなぎ、天ぷら、とんかつ、ビフテキなどだったろう。しかしどれも高価で、若い人は簡単には食べられなかった。ところが現在のラーメンは、あまりお金がなくてもすぐに動物性脂肪を多量に摂取できる。
 私は、動物性脂肪のたっぷり入ったラーメンを目の敵にしているわけではない。私もそうしたラーメンをたまに食べるのは楽しみだ。しかし、日常の食事も含めて、動物性脂肪を過剰に摂取する食事を続けていたら、誰でも四十歳を過ぎて生活習慣病になる危険は高まるだろう。
 かつてこれほど動物性脂肪を簡単に大量に誰でも摂取できた時代は、少なくとも日本にはない。食生活に対する認識の不足、子どもの頃からいわゆる食育の不足、そして特に若い人たちの貧困問題が、動物性脂肪の過剰摂取を進めていると思われる。そして、食生活という「文化」の格差も広がっているように思われる。
 これらはすぐに目に見える問題ではないから、もしこれを放置したならば、日本全体で大きな問題となるのはあと十年後二十年後となるだろう。
 私が高齢者となった時に、生活習慣病になる中年層が激増するような状態にならないことを願っている。