わたくし的には 〜差別は簡単でしかも快感でもあろうか〜

 生まれついて持っている「もの」で、他者を差別するのは、とても簡単で、しかもなかなかの快感でもあろうか。

 どの人種に生まれた、どの民族に生まれた、どの国に生まれた、どんな家柄に生まれた、どんな経済状態の家に生まれた、どんな身体で生まれた、どんな性別で生まれた、などなど、本人の努力つまり人格とは一切関係のないところで、自分を偉いと思って、いや、思うのはいいけれど、そうでない他者を劣等だと根拠もないのに決めつけて、見くだす。

 あの人は働き者だ、あの人は気持ちがやさしい、あの人は辛抱強い、あの人は物識りだ、あの人は寛容だ、などなど、他者からも認められるすぐれた人格は、環境もあるけれど本人の努力の積み重ねによるところも大きい。しかし、持って生まれたものは、持って生まれただけのものなので、何の努力もいらない。だから勝手にそれを優れたものだと決めつければ、そうでないものを劣等だと決めつけるのは簡単で、すぐに自分が偉くなったような気持ちにもなれる。これが、言われのない差別というものだ。

 世の中に不満や不安がたまってくると、どこの国でもこうした差別が台頭してくる。

 景気が悪くなると、人心が不安になる。不安になると、社会的な弱者で、だけれども少し前まで、つまり景気がいい時には弱者だなどと思ってもいなかったような人は、一層不安になる。自信もなくなり不満もつのる。

 そんな時に、差別を持ち出せば、不安や不満はかなり簡単に吹き飛ばすことができる。
 社会的な安全網がそこできちんと機能していれば、差別など持ち出さなくても、何とか持ち直すこともできるけれど、政治があまりそうしたことに熱心でないと、不満が噴出するから、政治権力も内心ではそうした差別を利用したくなったりもする。

 近現代の歴史を見れば、いつもそういうことになって、みんなが不愉快な思いをするのだから、差別とはどういうことなのかを、きちんと子どもの頃から考えていきたいし、政治権力も差別を利用することなど、ゆめゆめ考えないで欲しいものだ。