沖縄慰霊の日を控えて 『4日間の沖縄 第1日前半 宮古島から那覇へ』

1945年6月20日の前後、沖縄での米軍との激烈な戦闘はほぼ終了した。日本で唯一の地上戦であり、多数の沖縄県民が亡くなった。それから69年を経ているが、沖縄にはたくさんの米軍基地が存在している。これは言うまでもなく日本全体の問題である。そして現在日本では、情報統制や海外での戦闘行為容認といった事態が具体的に進行している。
私は2010年の10月に、私は初めて沖縄本島を訪れた。その旅の記録を、その年のうちに自身のホームページ(現在は閉鎖)で掲載し、その後2012年にこのブログに転載した。それを少し整理して、また連載してみる。


4日間の沖縄 第1日前半 宮古島から那覇


 宮古空港を定時に出発した那覇行きの飛行機は、ほぼ満席だった。
 初めて訪れた沖縄県の島は、宮古島である。世田谷区民吹奏楽団の交歓演奏会を宮古島で無事に終え、私は一人、団員たちと別れて沖縄本島へと向かった。2010年10月の日曜日、午後6時である。

 私が「沖縄」という土地の名前を最初に聞いたのは、たぶん、沖縄が日本に返還された1972年であったと思う。私は小学校2年生であった。
 当時、私の父は半官半民の会社に勤めており、その東京の社宅で私は生まれ育ったのだが、同じ社宅の同い年の男の子Mちゃんの一家が沖縄へ引っ越すという。どうも、大変に遠い所だということで、しかも何か特別な場所だという意味のことを、Mちゃんや私の父から聞いた。
 父は「Mちゃんが引っ越すオキナワは、今度、オキナワケンになったんだ」と言った。私は「じゃあ、それまでは何だったの?」と聞くと、父は「オキナワ、ジマ、かな」と答えた。

 いつしかMちゃん一家もまた転勤で東京へ戻って来て、沖縄海洋博覧会が開かれたのは、その前だったか後だったか。私は沖縄にまったく知己もなく、沖縄という地に特別に大きな興味を抱いていたわけではなかった。

 だが、学生生活の後半から東南アジアや中国や南アジアに旅行をするようになって、文化の違いと、逆に似ている部分があるということに、興味を持つようになった。沖縄は、少なくとも私が生まれ育った東京とは、どうもだいぶ、文化が違うらしいということも知った。
 また、近現代史を知るにしたがって、近世以降の本土との関係、とりわけ先の戦争での沖縄の置かれた状況、そして現在抱える基地の問題などを、決してつぶさにではないが、知るにしたがって、関心が高まった。

 それが、数年前に急に沖縄が身近になった。私の学生時代の後輩である画家の梅原龍君が、沖縄にアトリエ兼住居を建てたからだ。彼は、私に盛んに沖縄を訪ねるように勧めた。私はいつも「行くならきちんと沖縄のことを調べてからだ」と答えた。だが彼は、私のその答えを否定はしないながらも、とにかく早く沖縄を訪れることを、やはりいつも勧めた。
 また、周囲に沖縄をひんぱんに訪れる知人などもおり、異口同音に沖縄の良さを言う。だが、私はなぜか、なかなか訪れようという気にならなかった。単に私の沖縄に対する知識が揃っていないということだけでなく、何か、沖縄のいろいろなものごとを受け入れる「身体」ができていない、という感覚があったのだ。
 だが2010年の10月、所属していた吹奏楽団の演奏会が宮古島であり、私はそれを機会に沖縄本島を訪れることを決めた。宮古島から移動して来る日を含めて4日間の滞在とした。

 初めての沖縄訪問の実現を前にして、あまりいろいろと調べることはやめにした。歴史的なこと以外には、最低限の基礎知識、それもほとんど、交通のことと地理的なことだけを頭に入れるにとどめた。
 その一方で、最低限、自分の目で見て来ることを3つだけ決めた。それは、沖縄本島の街(まち)、基地(きち)、戦地(せんち)という、3つの「ち」である。
 ごくわずかな予備知識だけを持って、あとはその場で自分が五感で得るものを大事にしたいと思ったのだ。

 往路は、羽田空港から本島を越えて宮古空港へ。そして宮古島から沖縄本島へ飛び立ち、わずか45分のフライトで那覇空港へ着陸した。
 空港からは、唯一の軌道のある乗り物である「ゆいレール」というモノレールで、那覇のバスターミナルへ向かう。
 目的地は、梅原君のアトリエから歩いて20分くらいという、奥武島の民宿である。奥武島は、本島と橋で結ばれた小島である。そこへは、バスターミナルからバスで行けるはずである。
 沖縄は、まったくの車社会で、もっとも今は日本全国、都市部を除いてはどこでも車社会ではあるが、それでも少なくとも東京で暮らしていると、その違いに戸惑う。マイカーを持たないなら、沖縄ではバスを駆使するしかない。モノレールは便利だが、人口の多い地域をカバーしているだけのようだ。
 
 バスターミナルは、中国やパキスタンで私が見てきたものと、構造としてはそう変わりはない。だが、決定的に異なるは、人があまりにも少ないということである。もちろん、那覇のバスターミナルがである。夜とはいっても、まだ7時過ぎだけれども、人がほとんどいない。
 私はとにかく、自分の目的地へ行くバス乗り場を探した。あいにく日曜日は本数が少なくて、次のバスまでは1時間半もある。
 腹も減ってきたし、奥武島に飯を食うところがあるのかどうか、まったく不明であるし、今のうちにどこかで何かを食おう。
 だが、それらしい店も看板も視界にはまったくない。仕方ない、楽器をくくりつけたキャリアーを引っ張って、周辺を探すことにした。
 1軒の居酒屋があった。開けっ広げたような店で、外にも椅子と卓がある。あまり酒を飲む気分でもなかったが、まあ、とにかく入ることした。
(続く)