旅のそぞろ神に引かれて 第4回 〜真夏の黄色いサクランボ〜

 小学校二年生の夏休みに初めて伊豆七島の新島へ行った。それ以降、父が島への旅が気に入ったのか家族旅行で神津島、三宅島、八丈島を訪れた。
 父の郷里の信州へ行くなど通常の旅行であれば朝に家を出発するが、これらの島へ船で渡るには、夜に家を出発して翌朝に島へ上陸する。
 こうして夏休みのある日、もうすっかり日が暮れてから家族全員で駒込の社宅を出発すると、これから数日は夜も昼もあの部屋に誰もいなくなるのか、となぜかそんなことを思い、心細かった。
 それでも、国電巣鴨駅から山手線でぐるっと回って浜松町駅に着き、しばらく歩くと、もうナマぐさいようなドブくさいような東京湾のにおいがしてきて、心が弾んだ。
 夏草の繁った貨物線の引き込み線を踏み越えて、竹芝桟橋へ出る。あの頃は東京湾岸の明かりもひどく少なく、見えるのは倉庫の灯りやクレーンの標識灯ばかりだった。
 その中で、運河の河口の向こう側にある大洋漁業の、大きな丸の中にひらがなの「は」の字がある真っ赤なネオンサインだけが目立っていた。振り返るとすぐ頭の後ろには丸の中に「ス」の字があったが、これは倉庫のコンクリートの壁にべったりと黒いペンキで描かれただけのものだった。
 タラップを渡って乗船する時、はるか足下の岸壁と船の隙間に、どぶんどぶんと揺れている真っ茶色の海水が恐かった。
 船に足を踏み入れると、とたんに鉱油のにおいと、しめった鉄さびのにおいが鼻に入ってくる。このにおいは、何度か乗るうちに、いつか私の旅愁を誘うにおいとなった。
 父は荷物を置くとすぐに甲板に出た。「もうすぐ出航の合図の銅鑼(ドラ)が鳴るぞ」と言う。最初の時は「ドラ」とは何のことかと思っていたが「じゃわーん、じゃんじゃんじゃん、じゃわーん」と鳴り響いて、やがてどんなものなのか分かった。
 前方に見えていた「まるは」の赤いネオンもやがて後ろに位置を変えていく。「まるス」のペイントはすぐに見えなくなった。こわごわのぞきこんだ真下の海の色は、やはり真っ茶色で、湿った風はやはりナマぐさい。
 朝、もう父は目を覚まし甲板へ行き来している。私も誘われて甲板へ出てみると驚いた。一晩眠っただけなのに、真っ青な、いや少し黄色味を帯びた青い空と、同じように黄色味を帯びた青い海。風のにおいは、すがすがしさだけがその成分のような、南の潮のにおいに変わっている。ここから、小さな艀(はしけ)に乗り換えて上陸した島もあった。
 帰りは、朝に島を出て、夜に東京へ着く。


 あれは、たぶん新島へ行った帰りだった。浜松町駅からまたぐるっと山手線を回って巣鴨駅に着いた頃には、もう夕食の時間も過ぎていた。
 駅前のごく大衆的な中華料理屋で夕食を食べた。出前を取ったことはあったが、その店に入るのは私は初めてだった。カウンターだけの当時から古びた小さな店で、家族みんな疲れていたのか黙って並んで食べていた。
 店のテレビで、ゴールデンハーフが『黄色いサクランボ』を歌っていた。
 店を出て通りを一本越えるとすぐに静かな住宅街になる。社宅の敷地に入って、一番奥にある一階のドアを開けると、何だか様子がおかしい。父が「空き巣にやられた」と言った。母か姉が私に「アキスっていうのは、どうろぼうのことだよ」と教えてくれた。
 私と母と姉は立ちすくむようにしていたが、父はすぐに一一〇番通報をして、それから部屋の中を確かめていた。「外の給水ポンプに足をかけてベランダから入ったんだろう」「窓を割ってカギを開けたんだな」「カーテンが閉まっているのは明かりを外にもらさないためだ」などと誰に言うでもなくつぶやいていた。
 やがて警察が来ると、父は小声で「ほら、ああやって指紋を取るんだ」と捜査資料を集めている様子を教えてくれた。
 その間ずっと、私の頭の中にはつい先ほど聴いた「ほらほ〜ら、きいろい、さくらんぼ〜」という歌が、繰り返し流れていた。
 今でもこの歌を思い出すと、たちまちあの時の気持ちがよみがえってくる。少し恐かった。しかし、恐いばかりではない。空き巣が入っても傍観しているだけでいられた子ども時代への憧憬である。
 翌年、上の階に空きができると父はさっそく転居した。社宅の私の部屋番号は一〇一号から三〇一号になり、高校を卒業するまでその部屋で暮らした。