私のTOKYO1964 第4回 〜すがもこまごめこまごめすがも〜

 「すがもこまごめこまごめすがも」というのは早口言葉だ。早口としては甘いが、巣鴨駒込という地名を詠み込むための早口言葉なのであろう。どちらも山手線の駅名になっているくらいだから、東京に住んでいる人なら聞いたことがあるだろう地名だ。
 この早口言葉は、私が育った駒込の地で子どもの頃に聞いたものだから、誰かこの地の先人が作ったものだと思う。もっとも、巣鴨駒込以外には広がることもなかったかも知れない。
 私は、東京オリンピックの年、1964年に港区の虎ノ門病院で生まれた(とされている)。 両親と姉は北区西ヶ原の社宅に住んでいたから、私は病院からその社宅に移ったことだろう。気がつくと、それから転居した豊島区駒込の社宅に私はいて、そこで大学生になるまで生きていた。物心ついてからの記憶が正しければ(つまりSFのように「記憶を誰かに移植された」ということでもなければ)、そういうことになる。


 社宅は、たぶん私が生まれた頃に建てられた無骨な鉄筋コンクリート4階建てで階段が2カ所の全部で16室の小さなものだった。社宅の表側はコンクリートで舗装されてクチナシツツジの植え込みがあった。裏側はブランコ、砂場、鉄棒があり、草もたくさん生えていてトカゲがいたりもした。同じ敷地に低いブロック塀を隔ててもう少し大きな独身者向けの社宅もあった。
 住んでいた社宅表側の薄いコンクリート塀の向こう側には、私立高校の広大なグランドとその周囲に植えられている巨大な銀杏の木があった。初秋にはここに、はるばる秩父の山からでも降りてきたのだろう赤トンボの群れが舞った。
 狭くて長い一直線の道を隔てた隣は、大企業の保養施設の広いグランドであった。このグランドも高校のグランドも乾いた関東ローム層の赤土がむき出しで、冬の風の強い日には砂嵐のようになった。このグランドにも大きな銀杏が植えられていた。後に人工芝になって、サッカー選手のペレがやって来たこともあった。


 周囲には少し住宅もあったが、目立ったのは社宅である。このあたりは江戸時代には各藩の江戸屋敷下屋敷が多く、それらが明治維新後に官民に払い下げされて現在の街が形成されたのだろう。日本専売公社国鉄、電々公社、林野庁、日本車輛、三菱重工の他、大小の官民の社宅があった。
 社宅から山手線の線路を隔てた向こう側には、元禄時代の幕府の重臣柳沢吉保下屋敷跡であった六義園があるし、そこに隣接した「大和村」とかつて通称された高級住宅街も、区割りを見ると下屋敷などの跡であったろうことが推測できる。
 手許にある元禄9年初版の復刻版地図を見ると、私立高校の敷地は松平家下屋敷であった。そういえばその高校の校長は松平姓だったし、私が通っていた同じ敷地内にある幼稚園は、園長が徳川姓だった。
 高校のもっと向こうから一帯は、有数の広大な藤堂家下屋敷だった。そして私の住んでいた社宅のあたりは、古地図で見ると、区割りにいくつもの名字が見えるので、御家人の小さな屋敷が並んでいたのだろうと思う。
 高校のグランドの端に沿った細道が1カ所、奇妙なクランクになっている。私が子どもの頃は、道の両側は高い塀で囲まれていた。片側は高校の校舎の裏側、片側は保養施設の敷地で木がうっそうと繁り、その塀は苔むしたような大谷石でできており、古い屋敷町の趣があった。現在は、それらの塀は金網のフェンスになって道は明るくなったが、そのクランクは変わらない。
 古地図を購入した時に、そこと思われる場所を探すとやはりクランクになっていて、私は少なからず興奮した。あの奇妙なクランクは、江戸時代からのものだったのか、と。


 社宅からの最寄りの駅は駒込駅ではなく巣鴨駅で、歩いて5分もかからないくらいであった。当時の駅の周辺は、戦後復興の面影を強く残していて風情があり、赤ちょうちんや小さなバーが固まった一角もあった。
 そのうちの一軒の名前を今も憶えている。ショートカクテルのグラスを図案化した紫色の看板に「バーひさご」と書いてあった。ひさごとは酒を入れるひょうたんのことである。洋風の洒落た看板だったが屋号は誠に雅なものであった。もちろん当時はその意味も何を売る店なのかも知らなかった。小学校に上がってしばらくしてからなくなってしまったと思う。
 そういえば、その向かいには銭湯も映画館もあった。映画館では『ギララ』をやっていたように思う。これらも飲み屋の一角も今はない。いや、たった一軒だけ残っている。今あの建物を見ても、戦後から続いた飲み屋街の一軒の生き残りだと気づく人はあるまい。
 白山通りには私が小学校へ上がる前くらいまで都電が通っており、巣鴨にはその車庫があった。かなり広い敷地で真ん中にターンテーブルがあった。木造の宿舎がいくつも建っていたのも憶えている。今はバスの車庫になっているが、ここに鋳物の古い電柱が何本か残っている。これらは戦前からの焼け残った文化財的な価値のあるものだが、いつか撤去されはしないかと心配だ。


 巣鴨駅前から中山道を少し下ると、とげぬき地蔵商店街である。子どもの頃は、餅菓子屋、乾物屋、衣料品屋、漢方薬屋、瀬戸物屋、うなぎ屋、せんべい屋、帽子屋などが並んでいた。
 生活に密着した八百屋、魚屋、肉屋、本屋、スポーツ洋品屋、文房具屋などもあったが、これらの店はその後なくなってしまったものも多く、今は全体が田舎の観光地のような雰囲気となってしまった。
 商店街の路地の奥に住宅街が広がっているは今も変わらないようだ。私の通っていた小学校には、だから、巣鴨駒込のいろいろな家の子どもたちが通っていた。社宅の子どもたちは親の転勤があるから転校生が多かった。欧米から帰って来た子どもも何人もいた。都会的な実にさまざまな職業の家の子どもたちも地方からやってきて、またどこかへ転校していった。一方で、何代にも渡って動くことがないのは老舗やお寺の子どもたちである。小さな小学校だったので、どの家の子どもとも仲が良かったし、時に仲が悪かった。
 昭和40年代から50年代にかけて、さまざまな人を見たことは、それは子どもの眼ではあったけれど、今でも大きな糧になっていると思う。