音楽の力を信じて 第5回 〜音楽の間と魔〜

 落語が好きでたまに寄席(よせ)に行くことがある。どの寄席でも三時間くらいのプログラムで多数の噺家が主演し、合間には漫才や曲芸などの色物(いろもの)が芸を競う。
 早い時間に出てくるのは、前座や二つ目などこれから芸が伸びていくとされる芸人で、プログラムが進むにつれて中堅の真打ち、中トリを勤める名人、そして大トリの一枚看板の大真打ちの登場となる。
 あまり上手でない演者と名人の大看板との違いの一つに「間(ま)」の取り方があるような気がする。
 余裕のない演者は、何とか客を引き付けようとするせいかついついしゃべりまくってしまう。中には額に汗をにじませて形相もものすごく、取り憑かれているかのようにしゃべる演者もいる。
 意外に若い前座さんの中にそうでもないことがある。あまり上手ではないながらも誠実にしゃべって高座を降りて行く。一方、これからさらに売り出そうという若手真打ちの中に余裕がない人がいるように感じる。そして聴いている方も何だかぐったりと疲れてしまうことがある。
 大看板の大師匠は、高座のそでからゆっくりと歩いてきて、座ぶとんに座るだけで客を惹き付ける何かを持っている。亡くなった十代目桂文治さんはこの雰囲気がすばらしかった。すぐにしゃべり始めたりはしない。小柄な体をさらに小さく縮めて挨拶し、拍手喝采の中で顔を上げてから、ぎょろっとした目で客を見回して「まあまあ、そんなにお気づかいなく」などとやる。だが、興が乗れば、ここぞとばかり立て板に水となる。


 これが音楽でもまったく同じことがいえるのではないかと思う。
 私は大学の頃にジャズ研究会というサークルで演奏をしていたので、未熟な奏者の気持ちが我がことであるためによく分かる。
 音のない瞬間、つまり間が空くのが恐ろしくて何とか音で埋めようとして吹く。ところが未熟なのでかっこういいフレーズなどそうそうは出てこない。それでぶざまな音の連続になり、コード進行からも外れていく(外れることは「アウトする」などといって、優れた奏者は効果的にアウトを使うが)。
 ところが良いフレーズをそれほどは持っていなくとも、間を上手に取ると意外にかっこう良くなることもある。リズムだけが刻まれる中で、少しくらい何も吹かなくても、次にまた「プアッ」とハマる音で音色が良ければすばらしい。
 私は日本のジャズ・フェスティバルで一度、極めて著名なジャズ・トランペット奏者のマイルス・デイビスの演奏を聴いた。ところが、せっかく生(なま)の動いているマイルスを見ているのに、滅多に音を出さずに、若手のサックス奏者にばかり吹かせていてちょっとばかり不満であった。それでもときどき「プワッ」とやると拍手と歓声が起こっていた。
 「休符は音の出ない音符である」という言葉もある。「もしあなたが演奏会へ行って、誰もが知っている休符の場所、つまり音がない部分であるにもかかわらず音が聴こえたら、一部の不心得な奏者の単純極まる不注意でない限り、それは聴衆の一人ひとりの心の中にある、音の出ない音であるに違いない」(イワーマン・ヤスノリニコフ)という名言もある(?)。


 私は、親しんできた吹奏楽金管楽器アンサンブルでの合奏の休符に、長年恐怖を感じてきた。
 音楽という時間の流れに奏者全員が乗って進んでいる中で、突然、行く手に大きな穴が空いているように休符がある。しかも全奏者ともに休符の部分があるとする。
 「しかし、本当にここで1拍半も休んでいいのだろうか。音は鳴っていなけれども音楽の時間は進み続けている。もうがまんできない、耐えられない!」。それで「プエッ」とやったら、半拍も早く出てしまった、というような経験は何度かある。
 「間は魔に通じる」ともいう。全パートが鳴らし合ってその音の交錯が頂点に達した時の休符の「間」は、聴衆の心を捕らえる「魔」の力があるけれども、私には、休符をこしらえた作曲者に対する誠実さが欠けていた時や、休符のフェルマータで指揮者に忠誠を尽くしていなかった時には、この休符の「間」は不心得な奏者に成り下がる恐怖の「魔」となるのである。