こんなものを作って食った 第5回 〜『暮しの手帖』ふう札幌のラーメン〜

 私の親の手許に、創刊第22号から20年ほど前までの『暮しの手帖』が揃っている。『暮しの手帖』は戦後間もなく創刊した希有の編集方針を持つ生活雑誌だ。広告を掲載しないことによって、食品から日用品、雑貨、電化製品まで厳しい商品テストをしてその結果を報告することを可能にした。一方で、料理、洋服、小物、家具から自分で建てる家まで、その作り方を紹介している。
 1955年発刊の冬号(32号)に「札幌のラーメン」(南七西四・三平 大宮守人)という料理記事がある。この記事にあったレシピを参考にして作ったのがこのラーメンだ。


1、スープは鶏ガラ。これにショウガ、長ネギ、タマネギ、ニンジンの切れ端を入れた。『暮しの手帖』には香味野菜の他には「野菜何でも」とある。また「スープは濁らせても構いません」と書いてある。


2、メンマを味付けする。塩漬けのメンマを塩出しして使うとうまいのだが、塩漬けのメンマはなかなか入手できないので、水煮を使った。醤油、酒、砂糖で味付けした。弱火で煮付けていると水気がなくなってできあがり。


3、『暮しの手帖』には「豚肉を煮付ける」よう記してある。チャーシューの代わりであるが「チャーシューの代わりに」という記述があるわけではない。しかし、これは実際に簡単でうまい。『暮しの手帖』では単に豚肉とだけ書いてあるが、その記事の写真を見るとバラ肉のように見えるので、ここでも豚バラ肉を使った。
 「肉屋ですき焼き肉のように薄く切ってもらう」とある。その頃には切った肉をパック詰めで売っているスーパーマーケットは日本にはまだなかった。
 また、記事では豚肉を醤油で煮て、あとでその煮汁に砂糖を入れて醤油のタレにするように書いてあるが、ここでは醤油に砂糖と酒、ショウガとネギを入れて煮た。かなり甘めにした方が良い。ただし豚肉はあまり煮込んでは味が濃くなりすぎる。当たり前であるが。


4、鶏ガラのスープが煮えたら下ごしらえはほぼ完了だ。私は以前にはよく豚骨でスープを取ってラーメンを作ったが、じっくりと取った鶏ガラスープもうまいものだ。両方使っても良いだろうし、これに煮干しや干しシイタケを加えてもいいだろう。しかしここでは、昭和30年頃の札幌のラーメンに近づけるため、鶏ガラスープのみとした。


5、麺は中華そばとして売っているものを使う。あらかじめよくほぐしておくことが大切。私は自分で中華麺を打ったことはない。


6、どんぶりに、豚肉を煮た醤油ダレを入れ、長ネギを入れておく。このあたりまで来ると、自分がラーメン屋になったような気分になる。


7、具は、豚肉の煮付けと、メンマの他に、炒めたモヤシとタマネギを入れる。タマネギの細切り少しとモヤシ、それにすりおろしたニンニクを使う。
 『暮しの手帖』では豚肉の脂身でラードを溶かし出して使うことになっているが、ここでは植物油を使う。これは健康のためなどという理由ではなく、大量のラードを溶かし出す時間がないからである。チューブ入りのラードも売っているが、うまいのかどうか分からない。


8、強火でこれらを手早く炒めて、ここに煮えたスープをジャーッと入れる。すぐにグツグツと沸騰するので、お玉で野菜を押さえつけて、野菜のうまみが出たスープだけを丼に入れる。


9、麺をゆで上げて、どんぶりに移し、鍋の野菜とその他の具を載せてできあがり。


 さて、下ごしらえが終わって後半の作り方だが、『暮しの手帖』の記述では電光石火の動きが要求される。
 麺を鍋に入れたらゆで上がるまでに、野菜を炒めて、スープをそこに入れて、そのスープだけを丼に注いで、ここまで1分間。ゆで上がった麺を上げて丼に入れ、それから野菜や他の具を上に盛りつける手順となっている。しかし、家庭用のコンロのバーナーでは短時間に炒めるのは難しいし、手早さとしても素人にはなかなかできない。どうしても1分以上の時間がかかり、麺がのびてしまう。コンロの火口も2つであると、スープの鍋、炒める中華鍋、麺をゆでる鍋を同時に使うことも難しい。
 私は、これらのことをこれまでに50回以上いろいろと試して、試行錯誤の上で最もうまくできる方法でやっているが、ここでは割愛する。


 日本のラーメンの来歴についてはいろいろな記載があるようだが、東京などの都市では華僑が広めたいわゆる“支那そば”が、たぶん明治の末年からあったことと思う。
 “支那”という言葉が、戦争の歴史を経て、日本が中国を侮辱する意味が強くなったことから戦後は段々と使われなくなり、“日本”そばに対しての“中華”そば、さらにラーメンと名前を変えていった。
 中国には、引っ張って延ばす麺がある。“引く”という意味の“拉(ラー)”の字を使った、拉麺(ラーミェン)と呼ぶ麺だ。日本でいうラーメンもここから来ているのだろうか。しかし札幌のラーメンと、こうした華僑によって広められた中華そばの関係は不明である。
 『暮しの手帖』の記事には「大陸から引き揚げて来た、包丁も握ったことのない男たちが屋台から始めて、見よう見まねで作り、やがてうまい店だけが残っていった」という意味のことが書いてある。
 それはそのとおりであろうが、その「見よう見まね」は一体どこで何を見たものだろう。日本人が多く暮らしていたいわゆる旧満州中国東北部)にこのような麺料理があるとは、私の経験と知識からはあまり思えないが、やはりはっきりしたことは分からない。
 味噌ラーメンはこの『暮しの手帖』の記事の筆者「三平 大宮守人」による考案とされているようだが、この記事にはその作り方も味噌ラーメンという言葉も一切記述はない。
 記事には当時の「三平」の店内の写真がある。古い印刷で鮮明ではない白黒写真だ。開けっぴろげの調理場を囲んで木のカウンターがあり、老若男女の客が思い思いにラーメンを食べている。
 戦後の貧しい日本で、冬の札幌で、このラーメンを食べたらさぞかしうまかったことだろう。そして実際このレシピで作ると本当にうまい。記事には「やみつきになります」と記されていた。