わたくし的には 第3回 〜電車で業(ごう)〜

わたくし的には 第3回 〜電車で業(ごう)〜

 電車の中でのマナーが、いろいろなところで言われ続けている。
 ひと昔前、ちょっと反社会的な人物や、昔で言うところの愚連隊的な人物が、電車の中でふんぞり返って座っていたとする。これらの人物は、なぜふんぞり返っているのかというと、自分が反社会的な人間であることを周囲に誇示したいからである。
 「規範から逸脱(などという言葉は考えないかも知れないが)しても恐くねえ」「俺は社会の決まりなんか守らなくても恐くねえ」「人の迷惑なんて考えなくても恐くねえ」といった気持ちであったろうと思う。
 昔のふんぞり返りの人は、そのことを注意されたら、待ってましたとばかりに恫喝してきたり、喧嘩をふっかけてくるだろう。
 ところが今、座席でのふんぞり返りをしている人にそのことを注意しとしたら、黙ってしぶしぶそれをやめることだろう。我を忘れてぶち切れる人もいるかも知れない。しかし中には、なぜそんなことを注意されるのか分からない人さえいるだろう。
 なぜか。今のふんぞり返りの人は、ただそうしたいからそうしている、楽な姿勢だからそうしているだけで、別にわざわざこれ見よがしに社会の良識に反抗しているわけではないからだ。そして、自分がしたいことを邪魔されると、非常に怒るのである。
 この感覚は、自宅のソファーでスナック菓子を食べながらテレビを見ているところを、注意されるのと似ているかも知れない。


 少し昔には、通勤電車の長いシートに座って、周囲にたくさん人がいる中で、平然ともぐもぐ何かを食っている人はまずいなかった。ここ10年くらいでこうした若い人をよく見かけるようになった。
 なぜか。これは「食事は食事をすべき場所でする」という当たり前のことが崩れていることでもあり、何よりも「自分が物を食っている姿」を大勢の前でさらすことに対する「恥じらい」が失われている、ということでもあろう。いや、失われているのではなく、最初からなかったという方が正解かもしれない。


 昔は「人前で鏡を見ることは、はしたないこと」ということが言われた。“お上品”な家柄でも気軽な庶民の生活の中でもそうだったのではないかと思う。それだけ一般的なことであり、つい最近まで当たり前に活きていたことであった。
 鏡を見て「自分の顔を整えること」は家を出る前にやることで、家を一歩出たら、そこからは「世の中」であるから、他人の目を気にしてよそ行きの態度に変わらなくてはいけないのである。
 なぜか。自分が恥をかいてみっともない、しつけが全然されていない、と思われるのは困る、ということもあるが、より本質的には、世の中は、人がいっぱいいて、赤の他人ばっかりで、ただいるだけでもストレスがたまる。そんな浮き世を少しでも気持ちよく過ごすために、内にいる自分と外にいる自分を区別することを、みんなが考え、実行していたのだ。
 電車の中で平気で化粧をしている人は、ただそうしたい、というよりも時間がないなど、必要があってしているわけであろう。そして「はしたない」という感覚をまったく教わってこなかったであろうから、それを注意されたとしても、やはり何のことだか分かるまい。カルチャーがまったく違うと言ってもいい。


 昔の川柳に「大あくび、棚のお神酒を思い出し」というのがある。八代目の三笑亭可楽が『富久』のまくらで言っていた。
 なるほど、無聊をなぐさめている江戸の売れない幇間(ほうかん=たいこもち)の様子が目に浮ぶようだ。真っ昼間の裏店(うらだな)の棟割長屋の四畳半で、誰も見ていない(神棚の神様は別だが)から、思いきり大あくびをして、しかも口をふさぐ必要もないわけだ。そうしてこそ、ストレスの解消にもなることだろう。
 しかし、電車の中で他人の大あくびは見たくない。より正確には、他人の大あくびによってその人の口腔内を、わたくし的には見たくない。
 電車の中で、大あくびをして、しかも口を手でふさがない人が結構多いのである。だいたい、人間の粘膜なんていうものは、口唇を例外として、よほど特別な場合以外には、人に見せるものでも、見るものでもない。
 あくびは、イヌやネコがしているのを観察すると、やはり大口を開いているから、ほ乳類の多くで共通なのかも知れない。だが、手(前足)で口をふさぎながらあくびをしているイヌやネコは、少なくともわたくしは見たことがない。イヌやネコは、本当にくつろいで、外敵から襲われる心配のない時に、実に気持ち良さそうにあくびをする。
 だからこそ、人間は、人前ではわざわざ手を口のところに持っていってふさぐのだ。なぜか。外で、人前であくびをする時に、自然のままではなく、イヌやネコと同じではなく、わざわざ手で口をふさぐという後天的な行為をすることで、内と外では行動を区別している一人前の社会人であることを示している。これは、一種の“我慢”でもある。自然のまま、本能のままにしたいけれども“我慢”する。そうしてこそ、社会の秩序が保たれるのだ。


 さて、人前での行動に注意を払わない人、内と外を区別しない人に対して、わたくし的には耐えがたい、許しがたいものがある。
 なぜか。それは、マナーを守らない奴はダメだ、などと単純に怒っているのでは決してない。わたくしが日常、電車の中では我慢をしているからである。本当は、家にいる時とまったく同じに電車の中でも周囲を一切気にしないで過ごせたら楽だ。でも、それはできない。できないのに、まったく平気でできている人たちがいる。不公平じゃないか。それで、電車の中でいわゆるマナーを守らない人が許しがたいのだ。
 まったく電車の中というのは、どうしてこうも業があらわになるのだろうか。自分も他人も。