わたくし的には 第2回 〜放送や新聞では「やばい」と言って欲しくない〜

 時事通信社発行の『記事スタイルブック』(1989年)の中に「差別語・不快語」という項があり、その中で「特殊な分野や世界で使われる隠語やスラング、その他、品位を落とし、読者に不快感を与える語句はなるべく使わない」として、サツ、デカ、ブタ箱、チクる、ずらかる、ばれる、やばい、などの語が挙げられている。
 また、『新版・日本のヤクザ』(加太こうじ著、大和書房発行、1964年初版、1993年新装版)には、「ヤクザの心理」の項に「博徒テキヤ、グレン隊の掟と用語の共通性」として、独自の符牒が挙げられている。そこには、ヤバイ、フケル、トンズラなどの語がある。
 ちなみに、この本は名著であるとわたくしは思っている。加太こうじは紙芝居作家としては水木しげるの師匠格だった人で、後に、江戸東京の文化風俗の研究者になった。

 
 さて、言葉は時代につれてどんどん変わっていくものだから、その変化を嘆くと、何やら守旧的で頑固だと見られやすいが、乱れる流れには、少しでも石を置いて修正したいと、わたくしは思っている。
 「やばい」という言葉は、日常会話の中では年輩者を除いてほとんど当たり前のように使われている。さらに最近は「とてもおいしい」「非常にすぐれている」「おどろくほど大変なもの」という意味で若い人には使われている。
 しかし、問題なのはテレビやラジオといった放送の中でも普通に使われていることで、わたくし的には気になって仕方ない。新聞の連載漫画でも使われていたのも見た。いや、もっと正確に言うと、放送の中で当たり前のように使われていることがほとんど“気にされていない”のが、気になって仕方ないのである。
 「品位」という価値観は、現在はこうも相対的に地位が下がっているのだろうか、とも思う。
 誰かがどこかで、例えば、放送の中で品位を守っていなければ、子どもたちはいったいどこで品位という価値観を勉強するのだろう。それを学ぶことができないまま大人になり、親になってしまう人が増えたら、相対的な価値はもっともっと低くなり、日本人の品位は遠からず地に落ちることだろう。


 品位は、別にその人を高級に見せるためのものではないと、わたくし的には思う。品位を保つことは、この過密な世の中で、お互いに不快にならず、ストレスを抱え込まず、気持ち良く過ごすための、いわば「暴発防止装置」である、と思う。
 言葉も含めてこうした「暴発防止装置」としての文化が変化している、いや失われていることに大きな危機感を感じる。
 なんとなれば、それはわたくし自身、暴発に合いたくないという、身勝手な理屈によるのだけれど。