食ったものはいつか転生す 第2回 〜祭りの夜店のフライ〜

 毎年7月1日の富士山の山開きに合わせて、東京の本駒込にある富士神社ではその前後に祭礼が行われる。駒込界隈では「お富士山(あるいは「お富士さん」か)と呼ばれていた。
 私は限りなく巣鴨に近い駒込の生まれ育ちで、富士神社は限りなく駒込に近い本駒込にあり、小学校の学区としても離れているので、お富士山に行くようになったのは小学校の高学年か中学生になってからだったように思う。
 ちょうどこの時期は、1学期の期末試験だから、学校で「今日、お富士山行く?」「でも全然勉強してねえからなあ」などと会話を交わしながら、夜になって行ってみるとばったり出くわしたりしたのも愉しい思い出である。不良がかった奴なんぞは、家から持ち出したウイスキーを境内でラッパ飲みしてぶっ倒れ、大騒ぎになったこともあった。子どもはここでアルコールの怖さを学んだ。


 お富士山の日、梅雨時ながら何とか天気がもてば、実にさまざまな夜店が出る。夜店といっても祭りは3日間くらいあるから、昼間も出ているけれど、屋台というよりは夜店と言いたい雰囲気だ。
 駒込駅から本郷通りを南下して豊島区と文京区の区境を越え、不忍通りを渡ったあたりから、そろそろ植木屋の露店がいくつも姿を現す。駒込はかつて染井と呼ばれ、江戸時代から植木屋がいっぱいあったことの名残りだろう。
 さらに進むと、どこにでも見られるお好み焼き、やきそば、たこ焼きなどの食い物の夜店が連なってくる。鮎の塩焼き屋なんていうのもある。ここら辺でもう、そわそわとたまらなくなって、思わず足が早くなるが、焦ると、食う物の計画(小食であるし、そもそも乏しい小遣いなので計画性が絶対に必要)が崩れ、値踏み(境内に近づくほど同じ焼そばでも高くなる傾向があるが、例外もあり慎重に見定めて安い物を選ぶ)も不正確になるので、気持ちを抑えなければならない。子どもはをここで計画性、経済性、忍耐力を学んだ。


 境内に進むと、もうそこはものすごいことになっている。ぎっしりと並んだ夜店が迷路を作っており、人がすれ違えないほどだ。食い物屋の種類も増え、フランクフルトソーセージ屋、ふかしジャガイモ屋、かいこの繭みたいなカステラ屋、かき氷屋、カラメル屋、べっこう飴屋、リンゴ飴屋、ソースせんべい屋、さらに、型抜き屋、ハッカパイプ売り、虫屋金魚すくい、かめすくい、ヨーヨー釣り、おもちゃ釣り、お面売り、おもちゃ屋、射的屋、輪投げ屋、テント張りの飲み屋、それに見世物小屋までもが出ている。
 見世物小屋は当時でも珍しく「親の因果が子に報い〜」などとアメ横の魚屋みたようなダミ声で呼び込みをしている。老齢のその呼び込みも芸人の一人であったりするのが分かるのは、大人になって初めて中に入ってからだ。
 出し物はその年によって異なっており、お化け屋敷、ヘビ女、イヌ人間などなど。看板はお決まりのおどろおどろしいペンキ絵である。下の方に小さく「厚生省認可」などと書いてある。子どもはここで、実に実にいろいろなことを学んだ。
 だが、10年ほど前に境内に駐車場ができたため狭くなり、見世物芸人の高齢化もあって小屋掛けはなくなった。夜店の規模もずいぶんと小さくなったのではないか。
 余談だが、私は出版社にいた頃、自分がフリーになったら見世物小屋芸人の記録を本にしたいと考えていた。ようやくフリーになったら、既に先を越されて出版されてしまった。


 さて、そうした中で、私の大きなお目当ては、フライ屋である。フライ。何のフライかというと、これがよく分からない。フライと言えば、エビフライ、アジフライ、カキフライなど、何かのフライなのが当たり前である。
 しかし、祭りというものがそもそも非日常の最たるもので、夜店のテキ屋たちも旅人、まれびと(ストレンジャー)であるから、フライも当たり前のものではない。
 青いのれんに、くっきりと白地で書いてあるのは「フライ」の3文字である。後年、その隅に小さくある屋号が書いてあるのを知った。
 大きなボールに、小麦粉をこねたようなものが入っている。これがこのフライの“具”のすべてである。これを手のひらの半分くらいの四角に薄く伸ばし、ごく細かいパン粉をつけて串に刺し、大きな鉄鍋にたっぷりと入った油で揚げる。揚げたら金網を敷いた大きなバットに並べる。
 私が中学生当時は1本いくらだったか忘れたが、ある時から現在まで1本100円である。バットの横にゴムの板が置いてあり、客は勝手にそこに百円玉を置く。釣りのある場合もそこに置いて勝手に釣りを取る。店の親父(中学生の時は親父だったが、その後、若いお兄さんになり、そのお兄さんも親父になった)は、こねたり揚げたりで下を向いたままだが、投げ出した百円玉を、見ていないようで見ている。そして硬貨ではなく紙幣が投げ出されると、それは素早く仕舞う。
 その横に、ソースが入ったバットがあり、客は勝手にフライ(の串)をつかんでソースにつける。ソースには太く不揃いの千切りキャベツが浮かんでおり、このキャベツをいかにたくさんフライに載せるかが“年季”ということなる。
 私は30年以上これをやっているが、上達したのは最初の10年くらいで、20年ほど前からは載せられるキャベツの量はそれほど増えてはいない。これは、フライ屋の、キャベツを載せさせないための目に見えない技術が常に勝っているということだろう。
 このフライは揚げたてをすぐにソースにじゅうっとつけて口に運ばないと、つまり少しでも冷めてしまうと、何と言うか、うまく言えないが、まったく意味がないので、バットに揚げたフライがたまっている時には、横目で見て通り過ぎ、斜め向かいの虫屋の鈴虫やカブトムシのメスなどを観察しながら、それらのフライがはけるのを待つ。
 バットのフライがなくなって、新たに揚げ始めたらおもむろに近づいて、百円玉を投げ出し、1本食う。そして今度は百円玉を2つ出して2本食う、これを2巡か3巡して、さらに3日間続ける。


 このフライ屋という夜店に対して、私がいろいろな疑問を抱いてしばらく経った頃、もう20代になっていたが、ある本の中にフライ屋に関する記述を発見した。
 私にとって食い物と酒のバイブルのような本『悪食の愉しみ』(伊達圭次著、光風社書店1976年刊行)に、著者の体験が載っていた。
 著者の伊達氏は中野区の鷺宮神社で、子どもの頃(戦前である。つまり戦前にもフライ屋があったことに私は驚いたが)に夜店で食べたフライを、再び味わう(おそらく1970年代であろう)。そして、中身が何もないことに大いに疑問を抱くとともに、中身のないフライがなぜうまいのかを追求しようとして、旧知の料理人を呼び出してその場で食べてもらい分析を依頼する。
 すぐに近くの喫茶店でビールを飲みながら聞いてみると「油はわりと良い物を使っている、上質のヘット(牛脂)だ。中身はエビの殻のごく細かい粉をメリケン粉に混ぜたものだな」という分析結果が出る。さらに「揚げてから口に入るまでの時間が短いこと」そして「ノスタルジー」をそのうまさの原因として挙げたのである。伊達氏はその答えに感心しながらも、どうもあれほどのうまさの原因としては納得できない、ということであった。


 後年、もう私が自分の稼ぎでフライを食うようになってからだと思うが、これを持ち帰ろうとする無粋な大人が増えて、親父もよせばいいのにそれに対応するようになった。持ち帰ったお客は、必ず家族とこんな会話を交わしているに相違ない。「あら、あんまりおいしくないわね、これ」「だめだなあ、飯の菜にも酒の肴にもならんなあ」「お店で食べた時はもっとおいしかったのよ」「ねえ、これ中身が入ってないよお〜」。
 やはり後年、私が一人で、百円玉を投げ出しながら食っていると、年配のご婦人が来て店の親父に「これ、中身は何なの」と聞いてきた。それは見世物小屋のヘビ女について「本当にヘビと人間との間に生まれた娘さんなの?」と聞くようなものに感じられて、私は思わずそのご婦人の顔を見た。そして店の親父に代わって「どうぞ、池袋のデパートで海老フライでも召し上がってお帰りください」と言いたかった。ところが、親父は下を向いて相変わらずクリーム色の生地をこねながら、ぼそっと低い声でこう答えたのである。「にくとやさい」。
 そのことがあってから、というわけではあるまいが、店先に「肉、野菜入り」という張り紙が出るようになった。さらについ最近、友人が決死の覚悟で隠し撮りしてきた写真には「文化フライ」という判じ物のような張り紙や「お持ち帰り出来ます」という張り紙までが確かに写っている。
 まあ、人様のご商売だから、とやかくは言えないけれども、“具”の味がかなり甘くなったことだけは、私も言っておきたいと思う。