僕のTOKYO1964 第2回 〜渋谷道玄坂下夜の鳩〜

 何の見通しもないまま、疲れ果てて、勤め人を辞める少し前の頃だ。赤坂の旧知の店で一人飲んで、終電を過ごした。
 渋谷までタクシーを飛ばせば、そこから西北へ走る電車が一本くらい残ってやしないかと思った。けれども、道玄坂の下、渋谷という谷のいちばん底でタクシーを降りざま、すでに閉まっている駅のシャッターが見えた。厳寒の候であった。
 鉄道会社のロゴマークが描かれたシャッターに駆け寄り、周囲を見渡したが、期待できるものは何もないことが分かった。真っ白い吐息が、シュウ、シュウと規則正しく、肩が上下に揺れるのと合わせるように真下に噴き出していた。
 しかたがない、ここからまたタクシーに乗って帰るか。
 顔を上げてタクシーを探そうとした時、ふいに女が誘い声を掛けてきた。
 「遊ばない」
 深夜というにはまだ少し早い時間だったが、駅前のその広場は、渋谷だというのに不思議なくらい人影はなかった。駅前広場というところは、駅の入口もデパートもシャッターを下ろしてしまえば、こんなにも暗くなってしまうものか。
 その女の顔を見ると、あれでその時の私よりは十歳くらい年上だったのではないか。女は、かなりしっかりとしたオーバーを着ていた。あいまいな返事をすると女は再び言った。
 「ねえ遊ばない」
 しかし私は、春を売る女性と遊んだことはなく、その時は、翌日のこともあり早く帰りたかった。
 路上で声を掛けてくるそういう商売の女性と、数時間か一晩か分からないが過ごすのは、どういうことになるのか興味深いことではあった。けれども私はその頃、そうした好奇心が、自制心や警戒心、罪悪感を押さえ付けて勝るほどには元気でなかった。


 断りながら女の顔を今一度見ると、化粧が濃いわけでもなく、荒んでいるふうでもなく、悲しそうにしているわけでもなかった。暗がりであったため顔をはっきりと見たわけではないが、そう感じられた。
 四十過ぎくらいの、ごく普通の、どこかの会社で働いているような元気な女性に私には見えた。どちらかというと丸顔で、背は私よりちょっと低いくらいであった。
 女は、積極的な笑顔になって、少しはっきりとしたことを言った。
 「本当にテクニックもすごいから、気持ち良くしてあげるよ」
 その言葉は、その女の雰囲気とはかけ離れたものに私には感じられた。
 丁重に断ると「もう電車も終わっちゃったし、お客さんが付かないと帰れないんだ」
 と、今度は少し困ったような顔で言った。
 私は、タクシーでどうしても早めに帰らなければならない旨を言い、彼女の住まいを聞いてみると、世田谷辺だと言う。私は多摩方面へ帰るので、便乗することを勧めた。
 「うん、でもやっぱりお客さんが付かないと帰れない。ねこのごはん代稼がなきゃ」
 と、意外なことを言う。
 私は少し驚きながら、自分はねこが大好きであること、実家でねこを飼っていることなどを述べると、彼女は急に顔を輝かせて、大きめのバッグから何かを取り出した。
 写真屋でもらう、紙製の薄っぺらいアルバムの表紙は手ずれしていた。表紙を開けると、上下二段のセロファンのポケットの中に、ねこの写真があった。
 室内で撮ったのだろう、ピントも構図も光の加減も、じょうずではない写真が十数葉。私は手に取って、ゆっくりとページを繰った。全部見てみると、三匹くらいを飼っているようだ。
 私は、その写真のねこがかわいらしいこと、それらのねこの年齢の目安、それに柄のことなどを言った。そして、私の実家のねこの年齢や柄を教えた。
 「そうなの、かわいいね」
 私から返されたアルバムをバッグにしまいながら、彼女は、静かな笑顔でそう言った。
 もう、テクニックのことや勧誘の言葉は出なくなった。
 私はタクシーを探そうと、目を遠くへ向けたが、すぐに思い直して彼女を見た。


 私は、気障で、若く、いやらしかった。
 彼女に商談を持ち掛けた。煙草を持っていたら売って欲しい。一本三千円で買う。その料金には、火を着けてくれることと、彼女の足もとをゆっくりと見ることを許す料金を含ませて欲しい。
 「いいよ」
 彼女は、微かな笑顔でひとことだけ言って、バッグから、さっとピースライトの箱を取り出し一本手渡し、私がくわえると、火を付けてくれた。
 紫煙をゆっくり吐き出しながら、彼女の足元を見た。スカートからわずかにのぞいている膝は、黒い厚手のタイツに包まれていた。膝から下は、茶色の柔らかそうなロングブーツがすっかり覆っていた。
 どちらかと言えば、色香を感じさせるかっこうではない。ブーツには、茶色い皮の靴ひもが、何本もイミテーションでくっついていた。
 私は顔を上げて礼を述べると、帰る旨を告げタクシーを求めて歩き出した。
 「タクシーのところまで一緒にいこうよ」
 彼女は、穏やかな笑顔でそう言って、私の左横に並んで歩き始めた。
 黙ったまま並んでゆっくり歩いていると突然、彼女は顔を左に向けて言った。
 「ほら、あそこに鳩がいるでしょう」
 彼女の向いた方は広場の外れで、薄青いガラス張りの電話ボックスが五つか六つ立ち並んでいた。そこから淡い蛍光灯の光があふれ、歩道の敷石をぼんやりと照らしている。
 その敷石の上を、鳩が歩いている。十羽はいないくらいだろうか。
 私は立ち止まり、黙って鳩を見つめた。
 彼女も立ち止まって、鳩の方を見つめた。「鳩って、鳥だから、鳥目のはずでしょ。でも、ねえ、あそこの電話ボックスの前には、毎晩、ああして、鳩がいるんだよ」と言った。
 蛍光灯の光に照らされて、電話ボックスの反対側にかすかに影を作りながら、鳩たちはその影と一緒に音もなく歩き回っている。
 みな一定の速度で勝手な方向に歩き回り、急に走り出すものや羽ばたくものはいない。くっくっという声を出すものもいない。
 ときどき敷石をつついているから、餌でも探しているのだろうか。
 こんな夜ふけに、渋谷の道玄坂の底で、歩道の敷石の上を、鳩が歩いている光景は、不思議だ。
 「不思議でしょ」。彼女が振り返って言った。
 私は真顔で見返して、大きくうなずいた。彼女は「不思議でしょ」と言ったけれど、不思議そうな顔には見えなかった。本当は不思議だと思っていないのかも知れない。


 止まっているタクシーに二人が近づくと、ドアが開いた。
 彼女に別れを告げてタクシーの中に下半身を押し込むと、彼女はバッグから煙草の箱をすばやく取り出し、何本か抜き取ると手渡しながら言った。
 「タクシーの中で、吸いたくなるでしょ」
 はっとして顔を上げると、彼女は、微笑しているように見えた。
 私は、右手の煙草を気にしながら、左手で数本の煙草を受け取って、少し大きな声で礼を述べた。
 根元まで燃えた右手の煙草を座席の灰皿に不器用に押し込みながら、顔を運転手に向けて行き先を告げると、ドアは閉まり、すぐに走り出した。
 あわてて顔を横の窓に戻したが、彼女の姿は横の窓から後ろの窓へ、そして小さくなり、すぐに見えなくなった。