沖縄4日間の旅 第4回 〜アヅマの旅人の感覚〜

 やって来られた考古学研究者は名護博さんという、沖縄本島出身の方で本職は農学博士だ。私が滞在している短い間にお会いできたというこの偶然は、私にはまったくの幸運であった。名護先生とは翌日朝に再会して、沖縄の古代史をこの玉城の地にある遺跡を訪ねながらいろいろと教えていただくことを約していただいた。 
 さて、今日は沖縄の街を見る予定だ。今回の旅の目的である3つの「ち」を見ること、つまり「街」「基地」「戦地」のうち、まず街を訪れる。順番としては、何となく、現代の沖縄の人々の暮らしを垣間見ることができるであろう「街」から始まって、日本人であれば誰もが避けて通ることができない「基地」、そしてやはり目を背けることのできない戦争の跡地である「戦地」を最後に見ようと考えていた。
 これが、梅原君が考えていた、私が初めての沖縄を見る順番と同じだったと聞いて驚いた。沖縄というと、私は米軍基地の問題や戦争での地上戦をすぐに思い浮かべてしまうが、生き延びた人たちが、この地で、営々と元気に生活を続けていることを忘れてはならない。みんな、働き、飲み、歌って、先祖から子孫へつながっているのだ。そのためにも、しっかりと街を見たい。そしてその順番として、歴史を遡っていくのが適切なのだと考えた。
 そういえば明日は、この3つの「ち」には入れていなかった、古代の沖縄の人々にゆかりのある「故地」を訪れることが加わったことに気づいた。街と基地の間に、大変に古い「ち」が挟まることなる。

 
 梅原君夫妻の車に乗せてもらって、まず那覇に出て昼ご飯を食べる。お勧めの食堂があるという。なるほど「丸安食堂」は、彼が勧めてくれるのももっとな店だ。
 券売機で食券を買って出し、カウンターで外気に体をさらして食う店のたたずまいはすばらしく、その食い物もうまい。沖縄そばも食いたかったが、ここは、ヘチマと豆腐とランチョンミートの炒めもの定食にした。ヘチマを食ったのは初めてである。小さなヘチマで、炒めても水分が保たれており、しゃくしゃく、ぶしゃぶしゃとした歯ざわりが良かった。
 ランチョンミートが入っているのは、米軍占領時代の名残りであろうか。私は子どもの頃、東京ではコンビーフを食べた。沖縄ではそれが、同じミンチ肉の缶詰めでも牛肉ではなく豚肉を主原料としたランチョンミートであったわけで、しかも、長期にわたる占領時代と現在も続く基地の時代があり、その文化的影響は、良きにつけ悪しきにつけ、深まったのだと思う。
 丸安食堂には、炒め物の定食類、沖縄そば、沖縄の焼きそば(沖縄そばの麺を炒めたもので沖縄独特のケチャップ味もある)など、狭い厨房ながら品書きは豊富だ。女性が2、3人働いており、勇ましく中華鍋を振ったり、ご飯を盛り付けたり忙しそうにしていた。


 この食堂の裏に、昔からの市場があるというので、そこを振り出しに、商店街なども案内してもらうことにした。
 よく知られている国際通りは、もう完全に観光客向けの通りであり、それはそれで良いのだが私にはあまり興味はない。ここにある屋内の市場も、鮮やかな色彩をした食用の熱帯性海水魚やイセエビが並ぶ様子が有名だが、梅原君が最初に案内してくれたのは、観光客とはほとんど無縁の市場である。昼過ぎだったせいもあり、ほとんどの商店は店を閉めていたが、何人かの“おばあ”が、木造の大屋根の下に野菜を並べていた。
 近くのアーケード街は、東京あたりでも私鉄沿線にありそうな庶民的な商店街だ。しかし、やはり売っているものに特徴がある。惣菜屋ではてんぷらがたくさん売ってあり、これは沖縄では飯の菜としても酒の肴としてもとてもよく食べられているだそうだ。刺身も並んでいて、外食でも家庭でも食膳によく上がるという。
 果物をそのままジュースにして売っている店もいくつかあり、これなどは東南アジアで最も普通に見られる光景だ。こういう、本土とは異なって東南アジアに似ている風景に出会うと、すぐに頭に血が昇ってうれしくなる。私は興奮を抑えながら、とろりとして甘い甘いグァバジュースを飲んだ。
 これらの市場や商店街、その裏通りをうろうろしていると、たらいに山盛りになったもやしの「ヒゲ」を摘み取りながら、話しをしているおばあを見かける。お年寄りになっても、自分でできる仕事をして社会とつながり、親しい人とも顔を合わせる生活が、ここにはある。


 梅原君たちは那覇近郊に用事があるとのことで、いったん別れ、私は市場の裏通りの道ばたに腰掛けてしばらく過ごした。路地裏から見上げた建物は多くが東南アジア的だ。路地に縁台を出して座る「ストリート・ファーニチャー」の光景も東京あたりではまず見られない。ついでに、ネコの姿も本土よりは東南アジアや南アジアで私が見たものに近い。
 ペットボトルの飲み物を買ったが、宮古島と同じく冷たいジャスミン茶がどの自販機にもある。そして、販売価格が100円から150円までバラバラなのも興味深い。ほとんど人も通らない路地裏だが、日の光がいっぱいに当たって明るい。少し離れたところに保育園か幼稚園があるのだろう、子どもたちのさざめきが聞こえてくる。私はザックを下ろし、縁石に座ってしばしまどろんだ。私がまどろんだ。
 東京で暮らしていると、街の様子が平板で凹凸がなく、つまり陰影が見られず、すなわち“心の隠れ家”がなかなか得られない、という感覚になる。同質性の中で同質性を強要されるような気持ちにもなる。
 沖縄は、ゆるやかで、のんびりとしていて、追い立てられることなく、ただそこに佇んでいることが許される、そんな雰囲気があるように思う。那覇の街には光と影がたくさんあり、私はそこに安心感を覚える。
 けれどもそれは、ヤマトのアヅマからやって来た旅人の感覚であることは間違いない。そして、決して私は琉球人にはなれないから、そこに住む人々の気持ちを心底から分かることはできない。
 だが、それはそれとしても、琉球の人々の心を、常に知ろうとする心を持ち続けたいものだ、と思う。


 夕方、梅原君の車に拾ってもらって玉城へ戻った。途中、ドライブインで梅原君の友人である、カメラマンのヤフネアキヒロさん、沖縄の染め物である紅型(びんがた)作家の縄トモコさんと待ち合わせ、飲み食いし、さらに梅原邸で、引き続き飲んだ。
 ドライブインで飲み残した泡盛を持ち込み、私はこのお二人との出会いに喜び、酩酊した。ようやく夜風が涼しくなった頃に宿へ戻り、ゆっくりと眠った。
(続く)