昭和26年の新聞紙が出てきた

 古いタンスを処分したら、中に敷いていた新聞紙が、昭和26(1951)年4月1日付けの毎日新聞(大阪発行版)であった。
 1面のトップは「講話草案・送付終る」「ソ連大使にも手交 対立は明白化せん」とあり、連合国の対日平和草案を巡っての、米国とソ連の対立についての記事である。
 連合国との戦争状態を法的に終わらせるいわゆるサンフランシスコ条約の調印はこの年の9月であるから、まさにその直前の状況である。「明白化せん」の「せん」も古い表現である。
 その次に大きな扱いの記事は「米戦車隊38度線突破」「漢灘江(議政府北方)の線へ北上」「鴨緑江の橋を猛爆」などとあって、これはもちろん朝鮮戦争の記事である。見出しからも、一進一退の緊迫した状況が伝わってくる。戦後6年のこの時、日本のすぐ隣で、このような激戦が行われていたのである。
 私は、1面の下にある小さな訃報にも興味を引かれた。「醇親王死去」(台北三十日発AP=共同)とある。記事は「中国連合通信が三十日報じるところによると元満州国皇帝傅儀の父醇親王はこのほど満州で死亡した」というごく短いものである。
 私は映画『ラストエンペラー』(ベルナルド・ベルトリッチ監督、1987年)を何回も見て、そうして北京に留学したので、映画に出てきた醇親王の名前も知っていたし、この人物が暮らしていたであろう北京の古い胡同(フートン)も毎日のように歩いた。それに、“ラストエンペラー”傅儀の弟である当時存命であった傅傑を劇場で見ている。また、私の父は、戦前、この“満州国”で農業技術者としての雇員だったのだ。
 「台北発」となっているのは、中華人民共和国成立直後の北京からは情報が得られなかったのだろうか、などとも想像する。
 そしてもう一つ、私は、この新聞をこのタンスの引き出しに入れた亡き人のことを、悼むのである。