シリーズ「電車で業」5ー東海道線小田原行き最終電車でもよおして地獄を見た

 久しぶりに旧知の店で飲んで、飲み過ぎて、新橋駅から東海道線小田原行き最終電車に乗った。
 乗る前に、こりゃあまずいことになるのではないかな、と予測して、駅員にトイレのある車両の停車位置を教えてもらい、その車両に乗った。
 しかし、身動きもできない満員電車で、目の前のトイレに行くのは難しい。だいじょうぶだろうかと思っているうちに、品川駅を過ぎたあたりで、激しく吐き気をもよおすとともに、お腹がゴロゴロしてきた。
 川崎駅までの間に、上も下も苦しさはどんどん増すばかりで、これは電車の中にパニックを起こすことになるではないかと思った。
 息がハアハアなってきて、油汗がどんどん吹き出してくる。周囲の乗客の笑い声や話し声が、幻聴のように遠く近く耳に入ってくる。つばを飲み込み、つま先を重ね合わせ、喉を締め、尻を締めを繰り返したが、もはや締める力もなくなってきた。
 とにかく、川崎駅に着いたら、人が動くだろうから、何とかトイレへ、それともいっそのこと途中下車しようか、しかし、降りたらその日はもう帰れない。
 とにかく川崎駅へ、川崎駅へ。眼球だけを動かして、電車がホームに入るのを、ようやく確認した。
 ドアが開いたので、降りる人波をかきわけて、必死の思いでトイレへ。
 しかし、使用中であった。
 脂汗というものがあんなに出ることを、私は初めて知った。
 映画に出てくる外科手術中の医者のようにポタポタと滴り、目にも入る。眼鏡にも垂れてきた。下着はすでに汗でグショグショだ。
 トイレのドアの枠につかまって、そのつかまった手だけに力を入れて、待った。中から流す音がかすかに聞こえて、それを励みにしたが、その音は何回も続いて、期待を裏切った。
 横浜駅に着く少し前で、ドアが開いた。トイレから出て来た男性は、扉の外で待っていた私のものすごい顔を見て、瞠目し、「あ、すみませんでした」と謝った。私はそれにろくに返事もできないまま、最小限の動きでトイレに入った。もはや感動も何もなかった。
 こうして私は、何とか電車内をパニックにすることを、避けることができたのである。
 地獄はあの世にあるのではない、飲み過ぎて乗った、金曜日の、東海道線小田原行き最終電車の中にあったのだ。