宮城の被災地現地からの友人の報告

 私の中学校からの友人で、現在は宮城県で、一級建築士として建設会社に勤務しているF君から、メールが来た。
 彼が無事だったことは、しばらくして確認したが、その時は、彼もまったくテレビを見ることができず、被害の実態はラジオからでしか知らない状況だった。
 それが被害の現場に出て、その様子を書き送ってくれた。彼の承諾を得て、そのメールを一部を変えて転載する。(文責;岩間やすのり)


 日曜日から、社員とその家族の捜索業務を本日まで、やってます。
 想像を超えた、状況にただ言葉を失うだけです。
 女川町は、自衛隊が道の瓦礫をどかした、すぐ後から入り、マスコミより早く現地入りしました。
 高台から見た光景は、現実味のない世界が広がっており、立ちすくむしかありません。
 4階5階の屋上に逃げた人も、流され、その波は、なにもかも飲み込んでしまいました。
 社員の家族、家は残念な結果で、一緒にいて、掛ける言葉を失いました。
 毎日、避難所をまわり、音信不通の社員関係者の捜索をしている中で、被災者の方に日々接しています。
 親、子ども、恋人、その他すべてを失って、今晩、暗闇の中、今晩食べるものも、体を温めるものもない被災した方を想うと、今晩、布団で寝る自分がおり、夜寝る時に自然と涙が出てしまいます。
 明日は、被害が甚大な南三陸の捜索と、支援物資の搬送をします。
 今晩、雪が降らないようにと、祈るばかりです。
 15日は、予定を変更し、石巻の被災地に再度、残りの不明者を捜すため、一日かけて、被災地、病院、避難所を回りました。
 昨晩からの雪で、うっすら冬景色の中の捜索です。
 同時に、生存が確認でき、避難所にいる方に物資を届けて歩きました。
 衛星電話を持ち込んだので、孤立している方はそこで初めて家族の無事を知らせることができ(数人の方は、反対に残念な結果もありましたが)、あらためて、一刻も早い通信の復旧を願うばかりです。
 本日は、訃報が2件確認され、悲しい結果もありましたが、最後に回った避難所で、音信不通の職員の母親を見つけ出すことができ、仙台市内にある娘の家に無事届けることができ、よかったです。
 その被災したお母さんは、自分が見つけられて家族のもとに帰れる喜びを表すことよりも先に、我々に対して、手間を掛けた、迷惑をかけたとわびてばかりいることが印象的でした。
 今、自衛隊が犠牲者の捜索を始めたましたので、これからはつらい結果も出ることと思いますが、一人でも多くの生存者が見つかることを祈るばかりです。


 このメールを受け取った後、F君と電話で話しをすることができた。その話しの中で聞いたこともいくつか記しておこう。


 カメラが入ることができず、まったく報道されていない被災地がいくつもある。
 被災者の方たちは、とにかく「今晩どうするか、明日どうするか」を心配している。
 被災者を探して、避難所を回ると、物資がない中で、かえって我々に、親切にお茶をくれようとしたりする人がいる。
 無事な身内や親戚の家などが見つかり、避難所から先に出て行く人がいると、残っている人たちは自分のことのように喜び、むしろ去る人に少ないパンを差し上げている光景も見た。


 彼自身も、苦労をしている。
 彼は自転車のアスリートでもあるので、捜索の車に自転車を積み込んで運転者とともに被災地へ行った。道路が寸断されている場所では、自転車が役立つと考えたからだ。
 実際にそれは役に立ったが、待ち合わせ場所で乗って来た車とはぐれてしまった。安全靴をはいていたが、途中で泥水の中を歩いたので、膝下から靴の中まで水浸しだ。服も、冬の自転車用の服ではない。
 夜には車で街に戻れると思って、持っているカイロや昼飯を全部、避難所の人に差し上げてしまった。朝からおにぎり1個しか食べていない。
 しかたなく、70キロメートルほどの距離を自転車で帰った。そのくらいの距離は、もともとは彼にしたら何でもないが、飢えと氷点下の寒さで、体が思うように動かず、しかも水没した道や崩落した道もあり、相当に危険だったという。


 彼は、現場ではむしろ、被災者の皆さんに元気をもらっていると言う。
 そして、ほんの少しずつでも、復興に向かおうとしている状況によって、励まされていると言っていた。
 F君、どうか無事でがんばってくれ。