「あいつらはもう半分キノコだぜ」(映画『マタンゴ』より)

 私が住んでいる東京都調布市は「映画のまち」ということになっており、「調布映画祭」が開催される。
 毎年いくつかのテーマが設定されて特集上映を無料で行う。今年はテーマの一つに「偉大な映画人の足跡 本多猪四郎生誕100年〜ゴジラに神を宿した男〜』があり、その上映の中で私は、昨日『ゴジラ』(1954年)と『マタンゴ』(1963年)を観た。

 『ゴジラ』は、これまでも何回か観たことがある。映画の中に戦後間もない頃のさまざまな空気や情景があり、切なさを感じる。
 それを高めるのは、伊福部昭の音楽だ。日本を代表する作曲家の一人で、映画音楽もたくさん書いているが、私は、伊福部昭の音楽は、不思議なことにどれもレクイエムに聴こえる。あるいは、自分が出生する時の血のにおいを思い出す(ような気がする)。あるいはまた、自分の前世の苦悩が思い出される(ような気がする)。またあるいはまた、前世(というものがあるのかどうか不明だが)の自分が死に至る時のさびしさを思い出す(ような気がする)。
 俳優には、東宝の当時の大部屋の人たちがたくさん出ており、黒澤明の『生きる』(1952年)や『七人の侍』(1954年)の大部屋の人たちと重なっていて、これは愉しい。

 『マタンゴ』は、これまで観たい観たいと思いながら機会を逸していた作品である。
 『日本映画300』(佐藤忠男著 1995年 朝日文庫)にも載っていて、著者は「SFにはときどき、荒唐無稽をつきぬけて人間存在の根源的な問題に触れるものがあって、びっくりさせられる」と記している。
 都会の金持ちの子弟や虚栄心の固まりの若者たちが、ヨットで南海の無人島に漂着して、島に自生している毒キノコを、それと知りながら意志の弱いものから順に食って、次々とキノコの化け物に変身していくまでの、人間のいやらしさ、物欲、性欲、独占欲、支配欲、嫉妬心、猜疑心、利己主義などなどを、しつこく丹念に描いている。
 カラー作品であり、霧と霧雨に覆われた島の、カビやキノコの美術がすばらしく、すばらしいから実に気持ち悪い。
 最後に残った二人、心理学者役の久保明が、純真な娘役の八代美紀に言うのが、表題の台詞である。
 恐ろしい毒キノコだと分かっていながら、飢えと疲労で、この娘もがまんができなくなり「あのキノコ、おいしいのかしら、みんなも食べたんでしょ」と口走り、久保明がそれを強くたしなめる時の台詞だ。

 しかし、これほどシュールな台詞が、これまでの映画にあっただろうか。
 「あいつらはもう半分二合どっくりだぜ」とか「あいつらはもう半分座布団だぜ」とか「あいつらはもう半分牛もつ煮込みだぜ」など、そういう台詞が入っていて、ぴったりくる映画があったら、観たいものだ。