「画家が戦争を記録した」

 私には、もうお一人、年輩の画家に知己がある。
 
 私がかつて勤めていた、野ばら社というイラスト集や唱歌集、書道の手本などを出版している会社の大先輩にあたる方で増田博一さんという。その会社では、営業全般の他、イラストを描いたり本の装丁をしておられた。
 
 2006年8月11日付けの読売新聞の連載「忘れない戦後61年<4>」の見出しにこうある。「『人に見せるな』封印した130枚 『敗走画』今 世に問う」
 
 戦前、画家を目指して美術学校に通っていた一人の青年が、召集されてフィリピン戦線に連れて行かれ、激戦と飢餓の地獄の戦場から、生還した。
 
 終戦翌年、この青年は突如取り付かれたように、戦争体験の絵を描いた。一気に描き上げたその数は130枚。
 
 この絵をある元海軍士官に見せたところ、「人に見せずに焼却した方が君のためだ」と言われて封印してしまったという。
 
 これらの絵は、勇ましい場面などはまったくなく、すべてこの青年画家が見たままの、戦場での苦しい生活、行軍、敵襲、戦友の戦傷や戦死、部隊内でのリンチ、そして敗走の様子であった。
 
 それが2001年にかつての上司に見い出され、平和祈念展示資料館に寄贈すべく整理され、さらに翌年「画家が戦争を記録した」(NiKK(にっく)映像 刊)という画集にまとめられた。
 
 私はこの記事を読んで「おお、前にいた出版社の増田さんも、フィリピン戦線にいたとおっしゃっていたなあ。僕が東南アジアを旅行したと言ったら、恐ろしくてそんな場所には行く気になれないと、体験者らしい真に迫ることをおっしゃっていたなあ」と思った。

 
 そして、まぬけなことに、最後にその青年画家の現在の写真と名前を見て、びっくりした。「増田さんじゃないですかあ」
 
 私はその会社を辞めて10年以上たっていたが、退社前に手紙をやりとりしたことを思い出して、その手紙を見つけ、さっそく往信した。無沙汰を詫び、新聞記事を読んだことを告げ、画集を1部分けていただくように頼んだ。
 
 すぐに電話がかかってきて、お話しをして、そうして画集をお送りいただいた。
 
 原画は、当時のチラシの裏に描かれたという、彩色された絵は、すばらしいものだった。
 
 すべて記憶に基づいて描かれたというが、まったく精緻であり、そして画家の目を持った体験者だからこそ描けるものであり、何よりも、増田博一さんという人の心から噴出して表現できたものであると強く思う。
 
 非常に胸に迫ってきて、迫力がある。だが、ことさらに悲惨さを強調したりなどまったくしていない。むしろ、日常の風景画のように淡々と描かれている。だからこその迫力なのだろう。
 
 そして、かつて戦争が日常であったことを、私は思う。