旅のそぞろ神に引かれて 〜寒の入りに天竜川を下る〜

 親の隠居所より正月五日に居住地に戻らんとす。隠居所は南信州の伊那地方なり。ここより天竜川に沿ひて飯田線鈍行列車にて豊橋へ南下せる途上、中部天竜なる駅にて一時間近ひ待ち合はせあり。天竜川の深く且つまた広き渓谷を臨む閑静なる駅なり。閑を如何せんとするに、駅前の人も家も少なき中に一軒の商店あり。飛竜軒と号す。構へ素朴にてまた何を生業と成すものかやや不明なれど、食堂のやうなものなりしか、かういう商店にて酒など飲む能ふなれば格別なる旅情にて愉しと思ひ、扉を滑らす。入りて店内の様相に一驚す。演歌歌手の氷川某のポスタアなどに満ちてありしなり。古いテエブルが四脚、うち二脚はこの氷川某の写真立てやシーデーなどで占められたるなり。ほかの二脚にはコツプ、箸立て、醤油、それに一升瓶などの置きてあるを見るに、やはり元は駅前の安直なる食堂なりしか。棚には菓子、ワンカツプ酒など置き、冷蔵庫には缶詰めの麦酒など見ゆ。店の奥にはかつて使はれしか木製の氷冷蔵庫見ゆ。石油ストオブの二器燃え盛り暖かけれど人の在らざりしゆえ、大声にて呼ばう。しばしありて、鼻より酸素の管を引き入れし老婦人の現はる。

 この店の女将なりし。病気ゆえ看板は出さず、客来れば応対すと言ふ。酒など飲みたき由を告ぐるに、購いて持ち帰るなれば可なりと言ふ。さもありなんと思ひ、ワンカツプ酒を購わんとするに、女将何を思ひてか、俄にここにて飲むも可なりと言ふ。また、どうせ飲むなればテエブルに置きありし一升瓶の酒を飲むやうに勧める。酒は黒松白鹿なる商標の本醸造酒なり。燗にせずともよひかと問はれる。燗酒の恋しけれど、燗を望みて飲みそこねし落語の伝などもあり、冷や酒にてよしと答へる。コツプを取るやうに言はれ、置くに女将のなみなみと注ぎ一滴もこぼさず。表面なる張力といふも年季なるか。肴には魚肉擬腸詰めを取る。酒は三百五十円、腸詰めは百円也。

 それとはなしに氷川某のポスタアを数へるに六十を超ゆる。写真立ては三十より多く、そのほかに関連したる小物など多く数ふるに能はず。女将の病気あるも、氷川某を贔屓にすることにより、活力を得しこと大なるかと我言ふに女将も大ひに頷き、大に好きなるもののあるは、生きるうへにて大事になりと言ふ。また女将の語るに、かつてフアン倶楽部にて氷川某と握手をしたる時、氷川某の女将に特に生国を問ふたことありといふ。女将の生国は水窪なりと答へる刹那に涙滂沱にして後覚へずと言ふ。これを思ひ出し語る時も、女将の目に涙の浮かぶを我認める。我も涙の浮かぶを覚ふ。重ねて一杯冷や酒を所望し、干して再会を約しここを辞す。寒の入りにて厳しき折りなれど天気晴朗にして気分よし。午前十一時三十七分也。