食ったものはいつか転生す 第4回 〜私的シシカバブ年代記〜

 先日、大久保にある中国東北地方の延辺料理を出す店で、羊肉串(ヤンロウチュアン)を、友人らと食った。旧友のI氏は、まさに中国出張から帰ってきたばかりであり、また、北京留学では私より先輩であることもあって、これらの場所で食べた羊肉串の思い出などを、焼けた串を振り回しながらわめいていた。
 変に甲高い彼の蛮声を聞きながら、私はしばし、彼が私のグラスにバイチュー(白酒)を乱暴に注ぎ込んでくれるまでの間、自分がここでこうして羊肉串つまりシシカバブを食べられることの幸せを思った。そして、羊肉串の20年を想った。


 北京で存分に羊肉串を食っていたのは1990年の夏から冬にかけてであった。私はこの食い物が、日本ではシシカバブと呼ばれていることを知り、子どもの頃に聞いた胃腸薬のCMソングを思い出した。「サ〜ロインステーキ、シシカバブ!」という歌詞は、シシカバブという言葉の響きがおもしろくて作ったのではないかと思った。なぜなら、シシカバブという食い物は、1970年代の日本ではよほどの食通でない限り知られていないのでは、と考えたからだ。
 私がシシカバブを初めて食ったのは、1988年に最初に北京を訪れた時か、その頃東京に出現し始めたインド料理屋でのシークケバブであったか、それとも留学した1990年であったか、判然としない。
 だが、とにかく北京ではいつでも羊肉串を食うことができる幸せを味わった。
 北京の羊肉串には、2種類ある。1つは、西のシルクロードから北京にやってきたウイグル族らが焼いている羊肉串、もう一つは「北京風味」と称されていた油で揚げた羊肉串だ。


 旧友のI氏が留学していた1986年頃には存在していなかったという、長大な屋台街「夜市」に行くのが、留学中の私は楽しみだった。
 この夜市の一番奥つまり最も悪い場所に、ウイグル族の出す羊肉串屋が3軒並んでいた。日本の焼き鳥と同じような細長いコンロに炭火が入っており、ここで串刺しになった小振りの羊肉片を焼く。通りかかると、大声で「キャサ、キャサ」と叫んで客を呼ぶ。私が3本と注文すると「5本買え」、5本と注文すると「10本買え」と執拗に勧めてくる。
 押し問答の末、ようやく商談がまとまると、その串をこちらに渡す。ところが彼らは、焼けた串を20本くらいずつ両手に握って、振り回しては客を呼ぶ。冬は氷点下の寒さの中でそれをやるものだから、こちらが受け取る頃にはすっかり冷えきってカチカチになっている、おまけに彼らは実に良く効率を考えてほとんど必ず生焼けで出す。当時は衛生的でない羊肉串からの病気感染も問題になっていた。
 それで私は、受け取った串を、今度はこちら側からコンロに勝手に載せて焼き始める。真冬の薄暗い北京の屋台で、店の人と客が向かい合って、指先で串をコロコロを回している様子は、可笑しいものであった。
 これをやり始めると、必ず店員のウイグル族たちがひどくおぼつかない中国語で口を揃えて抗議してくる。こちらはもっとおぼつかない中国語で抗議しながらやっぱり焼き続ける。
 ただ、彼らにも親切なところがあって、唐辛子を掛けるかどうかを必ず聞いてくる。これは彼らが、掛ける唐辛子を少しでも節約するためだなどと思ってはいけない。
 羊肉串に掛ける調味料は、塩とクミン、それに唐辛子であるが、中国で唐辛子を好まない人もいるのだろうか。塩はまちがいなく岩塩であろう。クミンはごく粗く挽いたものだから時には粒を口中で噛み砕くこともあって香りがすばらしい。唐辛子は大陸産の香り高くて辛すぎないものだ。
 小振りの肉片に間には、必ず脂身を1片か2片はさんである。赤身と脂身それにこれらの調味料の溶け具合は、恍惚とするうまさであった。
 私が居た(勉強をしなかったので、居たという言い方が正確である)中央戯劇学院の門の外にも、小さな乳母車のような屋台が出ることがあった。私の前にこの学校に留学していたK氏(天安門事件の目撃者である)は、よくここで羊肉串を買い込んで、留学生宿舎で酒宴を開いていたそうだ。
 どこからかこの羊肉串車を押して来ては焼き始めるのだが、いつ来るのか分からない。ただ、不法営業であったのか、一度私服警官らしき漢民族の人たちに取り囲まれて、かなり乱暴に排除されていたのを見たことがあった。


 もう一種類の「北京風味」は、公園や広場などで漢族と思われる人たちが大きなキッチンカーを使って営業していた。ウイグル族の羊肉串車とはまさに対照的だ。この北京風味をウイグル族の炭火焼羊肉串に比較して嫌う仲間もいたが、私はどちらも好きだった。
 これらの店で驚いたのは、揚げている鉄串の保証金(中国語で押金という)を取ることだった。1本1元の値段に対して、1.8元が請求されるから最初はボッているのではないかと戸惑ったが、食って串を返すと0.8元戻って来る。
 ウイグル族の羊肉串に比べると一般に肉片が大振りである。調味料は同じだ。私が北京風味をよく食ったのは、学校の裏手から抜け出た繁華街にあった食料品店だった。この店先で揚げシシカバブを売っているのだ。よく人だかりがしていて、初老の婦人なども立ったまま食っていた。ここは竹串で揚げているので押金も取られない。揚げた串に塩味が付いており、それを大きな四角い琺瑯(ほうろう)のバットに置く。もう1つのバットには、クミンの粉と赤唐辛子が別々に敷いてあって、付けたい人は勝手に付ける。竹串の手に持つところには、古新聞を小さく切ったものが巻き付けられあり、油がしみ出していた。


 中国の法令はまさに朝令暮改である。このことが羊肉串にも大きな影響を及ぼしたことがあった。留学から(逃げ)帰って、その翌年かさらに後に訪れた時だったか、北京で炭火焼の羊肉串がいっさい姿を消した。
 聞くところによると、北京市の条例で炭火を使うことが禁止されたからだという。油で揚げる北京風味はそのままだったが、私は夜市に行ってみた。あのウイグル族の羊肉串屋台はやはり3軒仲良く並んでいたが、驚いたことに3軒とも大きな鉄板を置いて、ここに串を並べているのである。私はひどくがっかりした。いや、がっかりしているのはウイグル族の彼らであったろう(いやいや、そうでもないかも知れないが)。
 さらにさらにその後、私が最後に北京を訪れた2006年ではもっと驚いた。街じゅうといっていいほどあちらこちらで、羊肉串を炭火で焼いているのである。細い蛍光管のようなものを曲げて作った羊肉串と示した赤く光る看板が繁華街にたくさんあり、漢民族と見られる(少なくともウイグル族ではない)人が串をコロコロ回している。
 私は喜び勇んでこれを買った。ただ、どうも「味塩」つまり化学調味料の入った塩を使っているようではあった。


 ウイグル族の故郷、新彊ウイグル自治区でも羊肉串を食った。北京から陸路で2回、シルクロードを経てパキスタンに至った旅行の途上でである。
 新彊ウイグル自治区省都ウルムチには巨大な市場があり、その内外のいたるところで羊肉串を焼いている。串も肉もかなり大振りで、もちろん炭火焼きだ。
 さらに西のカシュガールに来ると、地域での漢民族の人口比がぐっと下がって(ウルムチには当時でもかなりの漢民族の移入があった)、建物もイスラーム風のものがほとんどになり、中国語も通じなくなる。ここでは、街のあちらこちらに羊肉串の屋台が出ている。屋台といっても、細長いコンロを置いただけのものだ。乾燥地帯のオアシスで、天幕を広げた食堂の外などにこれらの屋台が並んでいる風情は、まったく夢のようであった。
 西に来れば来るほど、羊肉串はよりスパイシーになるであろう、と私は思ったが、意外にそうでもなく味はシンプルになっていった。ただし、北京では見かけなかった内臓の羊肉串などもあった。


 友人Kらと3人で行った1回目の旅行の途上、天池という風光明媚な場所で天幕(パオとかゲルのようなもの)に泊まってみた。あれはウイグル族だったかカザフ族だったか、天幕を手配した現地の若者に頼んで、ビールを1ケース調達してもらい、羊肉串も作ってもらうことにした。
 夜になり、テントの外に湖畔の石を積んでしつらえた炉で、若者2人が要領よく羊を焼いて供してくれる。私たちはビールをラッパ飲みしながら、次々と串をないだ。彼らは焼きながら自分でもときどき食っている。もちろん構わない。イスラームだからビールは飲まないかと思ったが、そのうちビールにも手を出してきた。何だか、みんなで一緒の宴会のようになり、結局彼らは、私たちが借りたテントで一緒に寝てしまった。
 私はこの旅行で、羊を屠殺してさばくところを初めて見た。喉から流れ出た血で、驚くほど明るい紅色に草が染まって、光った。


 バブル景気も終わりに近づいていたが、それでも代々木公園にはイラン人の巨大な市場ができあがった。それまでの好景気で、東京には明治以来のいわゆる華僑とは違う中国人の流入があり、パキスタン、イランといったこれまであまり日本では見かけなかった人々も大勢やってきた。
 こうした状況を憂慮する人たちもいたが、私はある大きな期待を抱いた。それは、彼らが大勢入って来れば必ずコミュニティーができる、そうすればそこに彼らのための飲食店ができ、そうなれば海外に行かなくても本場ものの彼らの料理が食える、と。
 その期待が当たった一つが、代々木のイラン人市場であった。私は、そうしたものができたという話しを聞き、あるとき出かけてみた。そこは私には予想を超えた楽園であった。
 そこがどのくらいの広さか分からないくらい、無数のテントが張られ、小物や雑貨、イラン音楽のカセットテープ、イラン映画のビデオテープ、イラン人向けの弁当屋もあった。そして、そこここに、炭火焼きの煙を上げているシシカバブ屋があるではないか。
 この市場に、私の見た限りでは日本人は一人も見当たらなかった。私だけが目を輝かせて歩き回っている。しかし彼らも別に奇異な眼で私を見たりしないのは不思議であった。
 私は、さっそくシシカバブを買った。少し平べったい金串に刺さっていたそれは大振りで、結構いい値段を取られた。だが、久しく羊肉串=シシカバブから遠ざかっていた私には至福の味に思われた。イラン弁当も買った。嬉々としてそれらをむさぼっている私を、周囲のイラン人たちは、ただ微笑んで見ていた。
 それからしばらくして、当局によってすべてが排除され、代々木のイラン人市場は消滅した。
 ずっと経ってからその頃のイラン人たちの現状を描いた『東京のキャバブのけむり』(写真/文・西山毅径書房・1994年刊)という本を見つけて、懐かしい思いがすると同時に、その頃の詳細を知った。


 トルコのドネルケバブというものも、繁華街に出現した。これは『アジア食文化の旅』(写真/文・大村次郷、朝日文庫・1989年刊)で見て知っていた。私はトルコには行ったことはない。
 円錐形の肉と脂の塊を、周囲からあぶって回転させながら焼いたものを、削って、パン様のものにはさんで食うらしい。最初にそれを見た時、すぐに店員にこれは何の肉か聞いてみた。彼は牛肉だと言い、私は落胆した。その後もいくつかの店で尋ねたが、すべて答えは同じであった。おそらく、日本人には羊肉がなじみがないからという配慮であろう。もっとも、トルコでも羊肉と牛肉を混ぜて焼いているらしいし、牛肉だけのドネルケバブもあるかもしれないから、まがいものということではないのだろうが、ああ、羊肉だけのドネルケバブを食べてみたい。


 旧友のI氏は、やはり羊肉好きであり相当の食い道楽であるから、これまで何度か羊肉串を焼いて食う会を一緒に企ててきた。そんな時、彼は国産の羊肉のいいやつを入手してくれて、これを焼くのだけれど、北京あたりの、炎天下でちょっと色が変わってしまった肉の方が臭くてうまいなあ、などとも彼は言う。羊肉串に合う中国酒は、やっぱりバイチューだ、紹興酒などはまったく論外だ、という意見が一致したりもする。
 彼は、大久保の店で、羊肉串に追加して延辺の名物料理など私の知らないものを注文し、バイチューのグラスを空け、やはり串を振り回しながら、怪しげな中国語で何かをわめいている。
 さて、私は次にどこでどんな羊肉串=シシカバブを、誰と食うことになるのだろう。いつかは、羊肉ユーラシア・アフリカ大陸ベルト地帯の西の端、モロッコで食ってみたい。