音楽の力を信じて 第3回 〜生まれ変わったら何の楽器?〜

 生まれ変わって何か別の楽器をやることができるとしたら、何がいいか。そんなことを考えることがある。
 いつもそれは打楽器である。もちろん、わざわざ生まれ変わらなくても、来世は鳥になりたいとか、虫にだけはなりたくないとか、鼻が高く生まれたいとかいうことではないので、やりたければ、やればいいのだが。
 けれども、私のように同じ金管楽器を三十年以上やっていると、今から違う楽器を、それも打楽器をやるとなると、なかなか本気では考えられない。
 しかし、だからこそ興味があるのかも知れない。オーケストラを観ても(CDなどで聴くだけでなく演奏会やテレビ番組で観る場合)、ジャズのビッグバンドでもコンボでも、歌もののバックバンドでも、吹奏楽でも、いつでも打楽器に目がいってしまう。
 テレビの音楽番組で、オーケストラ版「展覧会の絵」を観るとする。最終章の最後でバスドラムが砲声のように鳴り始める。巨大なバスドラムを巨大なマレットで、どうやるのか。ところが、なぜかカメラは汗まみれの指揮者の顔ばかりを映している。「あと三拍でバスドラムをぶっ叩くぞ」と拳に力が入るが、バスドラムは音だけで、映ったのはチェロだったりする。ホルンさえも映らない。そんな時私は、番組ディレクターとの好みの違いを呪う。


 それにしても、打楽器の演奏に惹かれる感覚は、どうも管楽器やピアノや弦楽器に惹かれる感覚とは、種類が違うようだ。打楽器の音の波形は、他の楽器のそれとはまったく異なるそうだから、脳の感じる部分が違うのかも知れない(ただし、ビブラフォンなどの鍵盤ものは演奏によって感じ方はちょっと別か)。
 マスネーの「タイースの瞑想曲」のヴァイオリンを聴いて昔の恋人の面影を切なく思い出す、という人はいるだろうが、ベニーグッドマン楽団の「シングシングシング」でジーンクルーパーが叩きまくるドラムソロを聴いてそうしたことを思い出す人は、そうあるまい(完全にないとは言い切れないがハチャトリアンの「剣の舞」のティンパニの連打で思い出す恋人とはどんな人だろう)。
 何か人間の中の野性を呼び起こすような打楽器の響きは、やはり打楽器だけのものなのではないか。音楽での興奮や高揚は、管楽器や弦楽器に、打楽器が加わることで著しく掻き立てられる。管楽器ではなかなか人に与えられない種類の表現ができることが、私が打楽器に惹かれる大きな理由だろう。
 ところで、管楽器はあまり身体を動かさなくても演奏はできるが(その良否は別として)、打楽器ではそうはいかない。
 グロッケン奏者とシロフォン奏者が、打ち合わせをしたわけでもないのに、激しい動きがまったく同じよう続くことがある。
 その視覚的効果は、演奏を聴くだけではなく観るという点から客を楽しませるには非常に重要である。打楽器には、他の楽器にはなかなか出すことのできない視覚的な効果も大いにある。
 私が長年親しんでいる吹奏楽では、他のジャンルと異なり、なぜか曲の一発目に打楽器が入ることが多い。指揮者の目が向けられた打楽器奏者が、それぞれのスティックやマレットを持って、まるで怒っているかのような顔で微動だにせずに指揮棒の降ろされるのを待っている様子は、本当にかっこう良い。あの瞬間こそが打楽器演奏の魅力なのだろうと、あらためて思う。まるで刀を抜く前に勝負が決まるという居合い抜きのようだ。