旅のそぞろ神に引かれて 第2回 〜魔法のコーヒーを出すインドのチャイ売り〜

 インド・イスラム文化圏では体調が万全でないと、たちまち食う気が失せてしまう。弱った体には、香辛料と油脂がたっぷりの食事はなかなか受け付け難いからだ。そんな時には、甘いミルクティーが実にありがたい。私は、インドに1度、パキスタンに2度旅行しているが、どの旅でもそれを感じた。
 これらは日本語や中国語の「茶」、英語の「ティー「と同じ語源であろう「チャイ」とか「チャーイ」といい、さらに西アジアでも同じように呼ばれているようだ。
 ミルクは、牛乳かコンデンスミルクで、パキスタンの北部山岳地帯では、流通の関係か、缶詰めのコンデンスミルクを使っていた。いずれにしても甘味が強く、炎天下のインドの街でも、山岳地帯の冷える夜でも、ことのほかうまかった。
 日本のインド料理店では、マラサティーなどと言って香辛料(ガラムマサラ)を入れたものもよく見かけるが、私は向こうではそれは見なかった。インドでは私が旅をした25年前当時、1杯が50パイサから1ルピーで、中には2ルピーで売ろうとしたり、無理矢理2杯まとめて売ろうとしたりするチャイ売りもいた。


 あれは、デリーからアグラへ向かう列車の中か、アグラからヴァラナシーへの列車の中でのことだったと思う。
 エアコンなしの2等寝台車で、窓には鉄格子がはまっており、車輛の間にはライフル銃を持った兵士だか警官だかが乗っていた。インド北部の平原をぶっ飛ばすその特急列車には、盗賊が襲いかかることがあり、その防止のための鉄格子と警備なのだという。
 しかし、列車火災になったら、脱出できないまま皆、丸焼けになるだろう、そんなことを独り考えているうちに列車は出発した。
 やがて、果物売りや揚げ菓子売りと前後して、チャイ売りが通路を通ってやってきた。私は、乗車前に駅の食堂で食ったカレーがどうしても口に合わず、カレーに付いていたチャパティーを持って乗り込んだので、一緒に食べるには絶好とばかりすぐにチャイを注文した。
 そのチャイ売りも街で見たチャイ売りと同じように、右手にポットを持っている。かなり大きなものでここに既に煮出して砂糖も加えたミルクティーが入っている。ポットの下には炭火が入れてあり常に保温されている。
 左の腕には大きなかごを下げており、ここに土器(かわらけ)の小さな使い捨てのカップがあり、ポットの蛇口からそこに注いで客に供するのだ。


 6人の寝台に、私の他に外国人では西ドイツの学生が乗っていた。私がチャイを注文したあと彼も注文をしたが、彼は「コーヒーはないか」と聞いている。
 私は「あるわけないじゃん」と思ったが、驚いたことにそのチャイ売りは「ある」と言っているようだ。そして自慢げに左腕に下げたかごから、インスタントコーヒーの瓶を取り出した。
 インスタントコーヒーそのものは、驚くことではなく、発展途上国ではインスタントコーヒーはむしろ高級品であり、チャイ売りが自慢げにそれを取り出したのも、もっともではある。しかし、チャイ売りがコーヒーも売っているということに、私は驚いたのである。
 しかし、待てよ、いったいそのコーヒーをいれる「湯」はどこにあるのだ、まさか。
 チャイ売りはコーヒーの瓶から、魔法の粉でも振りかけるかのように土器にインスタントコーヒーをぱらぱらと入れると、案の定、ポットの真ちゅうの蛇口をひねって、甘いミルクティーをそこに注ぎ込んだ。
 西ドイツの青年は、その事態に気づいて、あっ、とか、おおっ、とか声を上げたが、チャイ売りはやはり自慢げにそれを差し出した。吹き出しそうになっている私を、ドイツ青年は変な目で見ていた。私は笑うのをこらえた。
 私は、それがどんな味であったのか聞きそこなった。いや、自分でもあの魔法のコーヒー・チャイを注文してみれば良かったのだ。