わたくし的には 第1回 〜原発の問題は哲学の問題〜

 天災は、天から降ってくる災いだから、大地震津波も発生そのものを抑えることはできない。これはもう何万年前、何百万年前から繰り返し起こっていることだ。
 もちろん、その被害を最小限にしたり被害者を救済することは、政治や社会の役割であるから、それらがうまくいっていないなら、それは人災である。
 一方で、原子力発電は始まってから数十年であり、人間がまったく新しく作り上げる以前にはどこにもなかったものであり、それが事故を起こしたのだから、100%“絶対”に人災である。
 大地震津波が来なければ、事故にはならなかったという意見もあるかも知れないが、大地震津波はいつか必ず“絶対”に起こるものだ。
 しかし、大地震津波が起こっても、原発が存在しなければ、“絶対”に原発事故は起こらない。当たり前のことだ。
 そしてもう一つ、人間がやることに“絶対”はないということも重要だ。あるとすれば「人間がやることに絶対はない」ということが“絶対”なのだ。
 天災は、発生そのものに対しては、誰を恨むこともできない。そこで「情動」というものがとても大切になってくる。被害に遭った人たちへの、社会的な救済と同時に、無数の人々による寄り添う気持ちというものがなくてはならないのだ。
 しかし人災の部分、とりわけ“絶対”的な人災である原発事故については、被害に遭った人たちへ寄り添う気持ちも大切だが、何よりも、原因をきちんと究明し、責任者を明らかにし、今後二度と起こらないように「理論」として政治や社会や科学の部分から考えて、行動しなければならない。


 同時に、わたくし的に思うのは、原子力発電が本当に経済や産業の振興と同等に論じることなのか、疑問なのだ。
 もっとそれ以前の問題、人間が人間として生きて、それを子々孫々までつなげるという、いちばん大切なことと同等に論ずるべきではないか、つまり哲学の問題なのではないか、と思う。
 その上で、例えば再稼働についても是非を問うべきであって、電力が不足するから原発を再稼働するというのは、理屈としてはまったくそのとおりだけれども、何だか、全然レベルの違う話しのような気がする。
 だから、原発を再稼働したい人と、原発依存から脱したいという人とでは、同じ問題を論じていても、かみ合うはずがないのではないか、とさえ思ってしまう。
 もし仮に、原発は危険であることは承知の上で、明日のことも百年後のことも知ったことじゃあない、今儲かればそれで良いんだ、などということを考えている人がいたら、それはそれでとても分かりやすい。
 あるいは、原発の危険性については、怖いからあまり見ないようにして、とにかく物質的に豊かになれば良いのだという人も、分かりやすい。
 さらにあるいは、核の平和利用と言いながら、実は軍事利用も視野に入れている人がいたら、これも分かりやすい。
 けれども、原発推進の立場でも原発反対の立場でも、大まじめに真剣に、人間と日本と世界の将来のためになると思って、それぞれの考え方を展開している人があるとしたら、これは難しい。
 だが、科学的にはある程度までどちらが妥当なのかを判断できるとしても、最終的には生き方の問題、やっぱり哲学の問題になってくると、わたくし的には思うのである。