留年が怖かったが

 私が通っていた高校には、成績不振者に対して容赦なく留年させる教師が一部にいて、非常に恐怖を感じていた。今でも、夢に見るくらいだ。
 しかし、高校は義務教育ではなく、未成年とはいえ、自分で選んで通ったわけであるし、私は普通科であったが、普通科での教科を修めるのは当然のことなので、留年に恐怖していたというのは、まったく自分の怠惰によるものであったわけだ。

 しかし、小中学校は義務教育であり、公立校であれば、さまざまな資質を持つ子どもが入学してきて、教育の機会を与えられる。

 「子どもの持っている能力を、学校の教科というごく限られた物差しだけで計ってはいけない」という考え方は、もう何十年も昔から「画一教育」「受験戦争」「偏差値」「マークシート」など教育に関する新しい言葉や方式が出るたびに、繰り返し言われている。

 繰り返し言っても、子どもの個性を認めたくない人、子どもが自分独自の考えを持つことが怖い人、大人は無条件に偉いと思っている人、子どもは無条件に愚かだと思っている人、組織に唯々諾々と従う人だけを作り上げたい人、公教育のための公費に予算を割きたくない人、教育に関心があるように見えながらそもそも本人も気づいておらずに教育に無関心な人、などなど、一部には子どもを持つ親も含めた大人たちによって、踏みつぶされてきた。

 小中学生で、学校の教科を修められない子どもには、その子どもそれぞれが持っているさまざまな原因がある。資質、環境、生育史、その他いろいろな原因があるから、その子どもそれぞれでその問題を、専門家が解析しなければならない。

 あるいはまた、ある教科がどうしてもできない子どもがいて、場合によっては何らかの原因でその教科を一定の水準まで引き揚げるのがほとんど不可能なことも当然にある。
 そうした場合に、どうしてもその教科を、本人に対して相当なストレスを与えてでも、ある水準まで持っていく理由が、本当にあるだろうか。
 
 さまざまな資質を持ち、生育史を持ち、それぞれの環境の中にいる子どもを、きめ細かく教育するには、マンパワーが最大の力になるはずだ。極めて明快に言うならば、それは教職員の数と資質である。
 もちろん、方法論を発展させて、より有効な教育システムを構築することも必要だ、それはやはりマンパワーであるし、費用でもある。

 修められないのは、単純に子どもの“やる気”の有無だと考えている人がいるとしたら、そういう存在は、世の中の子どもにとって、最大の禍である。
 そして、そういう考えの人が、何かにつけて“単純化した言葉”や“恐怖”によって人を動かそうとするのは、古今東西のならいである。

 マンパワーをかけず、費用をかけず、その子どもに相当なストレスを与えても、一生涯にわたって消えることのない傷を受けさせても、学級や学校や地域や家族や親戚の中で親ともども孤立させても、それでも、ある教科を何が何でも修めさせる方法や必要があるというのだろうか。
 その方法が「小中学生の留年」であるとするなら、これこそ本当に恐怖すべきことである。