女子○○という言葉が気にかかる

 いつの頃からか「女子会」のように「女子○○」という言葉が盛んに使われるようになり、実際、若い女性だけの飲み会や旅行、あるいは趣味の集まりなどがおおいに見られるようになってきたようだ。
 若い女性だけで酒を飲んだり旅行へ行くなどというのは、昔からあることだろうが、最近特に“市民権”を得たということだろうか。
 若い女性同士で酒を飲むのは好ましくない、などと言う人はさすがにもう今はいないだろう。まったく当たり前で、若い女性同士で楽しむ飲むのはおおいに結構なことだ。
 それに、若い女性だからといって、何も必ず若い男性と徒党を組まなくたって良い。
 しかし、「女子」という言葉には、“女性性”を女性自身が拒絶している気持ちが投影されているような気がしてならない。さらに言えば、“大人の女性”になることへの拒否だ。さらにさらに言えば、誰か男性をパートナーとして獲得することからの忌避だ。
 「女子」という言葉には、女の子という意味だけでなく、女性全体を指す意味もあるが、最近使われているのは、小中学校での「男子」「女子」という使い方の延長のような気がする。
 “女性性”をすべてそぎ落とした、女性向けのイラストもとてもよく目にする。
 だからといって、別にみんなが、年齢とともに異性とくっつくべし、などと言いたいわけではない。性的な少数者の問題とは別だが、そんなことは自由意志で良いに決まっている。
 女性のイラストだからって、何もみんな目がぱっちりして、体の線が強調されている必要などない。
 けれども、やっぱり、気になるのである。
 近頃よく言われるように、男女の間で人間関係を構築していくなどということは、面倒なのだろうか。若い男性に魅力のある人間が少ないのだろうか。もともと少なかったけれど昔は惰性ということがよくあったのだろうか。
 どれもあるような気がする。
 けれども、やっぱり、人間が成長とともに人間性を磨き、煩悶し、異性に限らずさまざまな人間関係を築き、やがて異性に引かれ、“性性”で引かれ合い、というのは、大きな人生の喜びでもあるように思うのだが。
 一方で、人間性を磨くのは嫌で、あるいは人間性を磨くという観念を持たされないまま成長し、人間関係の構築はやはり面倒で、“性性”ばかりが価値観となって肥大していくのも、もっと問題だ。
 まあ、しかし、いろいろと面倒なことは避けて、自分の殻に閉じこもろうとするのも、現在の閉塞感の中では、至極もっともな感情ではあると思う。
 晩婚化、少子化、国力の低下などの問題もあるにはあるだろう。
 けれども、やっぱり、思うのは、私がもっと年齢を重ねた時に、若い人と、人間関係や男女関係を構築する苦労と喜びを語り合えなくなるとしたら、とても寂しいということだ。